むかちん歴史日記309 世界の独立指導者をめぐる旅行シリーズ④ ヴェトナム革命の指導者〜ホー・チ・ミン
新宿から歴史を発信!!むかちんです(≧∀≦)
今日は世界の独立指導者をめぐる旅行シリーズの第4弾!!
ヴェトナム革命の指導者
ホー・チ・ミン(1890-1969)
を紹介しますヽ(*´∀`)/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3
◆ホー・チ・ミンは1890年にフランスの植民地下にあったベトナムの貧しい儒学者の息子として誕生します。
父の影響を受けて「論語」などを好み、父に伴って、都のフエへ移住するとヴェトナム人官吏を養成する国学でフランス語も学ぶようになります。
しかし、在学中に農民の抗税運動に参加したことから、フランス当局に目をつけられ、
退学処分となりました。
その後、船の見習いコックとして働くようになったホー・チ・ミンは、1911年フランスのマルセイユへ行き、そこで初めての外国暮らしを経験します。
フランスの国内でも貧富の差があることなどを目の当たりにしたホーはここで大きな刺激を受けることとなりました。
ホーはその後、船員として世界各国を周り、1913年に英語を本格的に学ぶため、イギリスへ移住、1917年にはフランスへ戻りますが、同年に起きたロシア革命は彼に思想的な大きな影響を与えました。
1919年初頭、ホーはフランス社会党に入党。
同年、第一次世界大戦の講和条約が交わされますが、ホーはヴェトナム植民地にもフランス本国同等の権利を与えるよう嘆願書を提出します。
これは採択はされなかったものの、ホーの存在は知れ渡るようになります。
1920年、ロシア革命の指導者、レーニンの寄稿に感銘を受けたホーは、フランス共産党の結党に参加し、共産主義者となります。
しかし、ホーが望んでいたものは共産社会の実現ではなく、ヴェトナムの民族自決でした。
ただ、民族問題を第一に考えるホーは共産党内では異端の存在であり、中枢には入れずにいましたが、
国際共産主義運動の指導組織、コミンテルンが1935年に反ファシズムを採択すると、
民族問題は重要視されるようになり、ホーが主流となって行きます。
1939年、第二次世界大戦が勃発、1940年にはフランスがドイツに占領されると、ヴェトナム植民地は親独のヴィシー政権につきます。
大日本帝国がヴィシー政権の承認も下、ヴェトナムへ権益を拡大し、大日本帝国がヴェトナムの事実上の宗主国となると、
ホーは日本への武装蜂起を目指して準備を進め、軍備の弱かったヴェトナムは当時日本へ抵抗を繰り広げていた蒋介石に協力を求めます。
1945年、日本が敗戦すると、ホーは独立に向けた準備を進め、ヴェトナム八月革命の開始、ホーの率いるヴェトミンはヴェトナム全土を掌握して行きました。
そして「ヴェトナム民主共和国」の独立を宣言し、ホーは首相に就任します。
しかし、フランスをはじめ社会主義化を恐れたイギリスなど各国もヴェトナムの独立は承認しませんでした。
そこでホーは社会主義化を漸進的に進める方針に転換し、表向きは共産党を解散、
憲法も西欧式のものを制定します。
フランス政府は南部のコーチシナを分離させ、北側であるヴェトナム民主共和国と対立、第一次インドシナ戦争が勃発し、1954年にディエンビエンフーの戦いでフランス致命的なダメージを与えて、フランスを駆逐しました。
そこで結ばれたのがジュネーヴ協定でしたが、アメリカはこれに調印せず、南ヴェトナムに成立した親米国家ヴェトナム共和国を支援します。
そして、ヴェトナム共和国がジュネーヴ協定で約束された統一選挙をボイコットすると、民衆の反乱が起き、南ヴェトナム統一戦線(ヴェトコン)が結成されます。
ここにアメリカ軍と南ヴェトナム軍の激しい衝突が勃発し、1965年ヴェトナム戦争となるのです。
ホーはインドシナ戦争ほどの強い指導力を示すことはなかったものの、
人民を鼓舞し続けました。
そして、終戦への動きが始まった1969年に死去します。79才でした。
むかちん