むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記444 世界の歴史小説の題材となった人物④ オーストリア帝国の実質的な最後の皇帝~フランツ・ヨーゼフ1世

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は世界の歴史小説の題材となった人物シリーズの第4弾!!!

 

オーストリア帝国の実質的な最後の皇帝として名高い

 

フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

Emperor Francis Joseph.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%951%E4%B8%96

 

参照元 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95-%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%80%8C%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9A%87%E5%B8%9D-%E6%B2%B3%E5%87%BA%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B1%9F%E6%9D%91-%E6%B4%8B/dp/4309412661

 

フランツ・ヨーゼフ1世1830年オーストリア皇帝フランツ1世の三男、フランツ・カール大公の長男として誕生します。

 

当時、オーストリアの皇太子の地位にあったフェルディナントは生来の病弱であったため、子どもを作ることは不可能とされ、その弟、つまりフランツ・ヨーゼフ1世の父にあたるフランツ・カール大公は政治には一切の関心がなかったため、皇帝には即位しないことを明言していました。

 

そのため、フランツ・ヨーゼフ1世は幼いころから帝位を引き継ぐことが前提で育てられてきました。

従い、祖父の皇帝フランツ1世は彼を非常に溺愛したそうですが、母の躾はとても厳しかったようです。

 

1835年、祖父のフランツ1世が亡くなり、叔父のフェルディナントが皇帝に即位します。

 

フランツ・ヨーゼフ1世は将来の皇帝となるための帝王学ハプスブルク家の伝統に従って学び、6歳のときに母から離されて、宰相メッテルニヒが傅育官をつけて、週13時間の授業を、7歳のときには週32時間の授業を行いました。

 

1848年、フランスで2月革命が起こると、それが波及してオーストリアで3月革命が勃発します。検閲の廃止や自主憲法の制定などを求めて、民衆が詰めかけ、悪政の象徴と思われていたメッテルニヒが職を辞すと民衆は歓喜に包まれました。

 

しかししばらくしてからバイエルン王国のルートヴィヒ1世が退位したとの報を受け

ウィーンは混迷に陥ったため、母はフランツ・ヨーゼフ1世をイタリア戦争の戦線に送ります。

安全ではないとはいえ、どうなるかわからないウィーンよりはまし、という判断でした。

 

1848年12月、フェルディナント帝から譲位され、フランツ・ヨーゼフ1世として皇帝に即位します。彼は、君主は神によって統治権をゆだねられているという王権神授説を信奉していましたが、彼が皇帝に即位するに際し、母は非常に尽力したため、母の意向には逆らえませんでした。

 

しかし、フランツ・ヨーゼフは「新絶対主義」という新たなかたちの絶対王政を敷きます。

これは、万人のための近代的な経済・行政・教育システムを有無を言わさず与えることによって、万人への政治的諸権利の譲渡を不要にするというもので、

単純に王の独裁という古典的なものとは異なりました。

 

ですが、イタリア統一戦争に介入してこれに敗北すると財政は悪化、銀行家から外国債を募る必要がありましたが、彼らは代議制議会を求め、フランツ・ヨーゼフ1世は改革を求められました。

こうして、新絶対主義は終焉を迎え、立憲主義国家へとシフトしていきます。

 

またプロイセン首相ビスマルクの罠にはまり、1866年の普墺戦争に大敗します。

さらにしばしば対立が起きていたハンガリー人と和解しハプスブルク王朝をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割して、オーストリアハンガリー二重君主国を成立させます。

 

のちの普仏戦争では中立を守り、ドイツへと接近していきます。

 

1914年悲劇が襲います。

第一次世界大戦の引き金となった、サラエボ事件で皇太子であったフランツ・フェルディナント大公が暗殺されるのです。

こうしてオーストリアセルビアへと宣戦布告し、第一次大戦へと突入していきます。

 

そのさなか、フランツ・ヨーゼフ1世は1916年死去します。86歳でした。

 

混沌とした暗い時代であったため、民衆の間では皇帝の死に対する悲しみも新皇帝の即位への喜びもほとんどありませんでしたが、第二次大戦後には古き良き帝国時代の象徴として、68年という最長の期間皇帝として即位したフランツ・ヨーゼフ1世は国父として愛され、今なお、オーストリアでは、銅像やポスターが掲げらています。

 

むかちん