むかちん歴史日記338 子どものときにランチ休憩で読んでいた児童文学の作者たち③ ピーターラビットで世界中を魅了~ビアトリクス・ポター
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は子どものときにランチ休憩で読んでいた児童文学の作者たちの第3弾!!!
ピーターラビットが世界中で人気になった
ビアトリクス・ポター(1866-1943)
を紹介します(*^▽^*)
◆ビアトリクス・ポターは産業革命期の1866年、ロンドンで誕生します。
産業革命で台頭してきた上位中産階級の裕福な家庭で育ち、乳母や家庭教師がいたそうです。
当時の中流階級の家庭では学校に行かずに家庭教師から学ぶことは珍しいことではなく、
ポターも一度も学校に行っていませんでした。
孤独へ変化に乏しい毎日を従順に受け入れていたポターですが、
15歳から31歳までは暗号日記というものを記しており、そこに本音を吐露していました。
ポター家は毎月夏になるとスコットランドの避暑地に出かけていましたが
オーナーが代わって、家賃を値上げしてきたため、新しい避暑地を探した結果、出会ったのがその後のポターの人生に大きな影響を与えるイングランド北部の湖水地方です。
一方でポターは非常に観察眼の鋭い人物であったと言われ、
当時、イギリスでは博物学が大流行していたために、顕微鏡が家にあることも少なくなかったのですが、
ポターが特に興味を惹かれていたのは、キノコで、その精緻なスケッチを描いていました。
そこで、伯父である化学者、ヘンリー・ロスコーの計らいでキュー王立植物園で自由に研究・観察ができるようになり、当初は他の学者たちもポターを歓迎していました。
しかし、ポターが胞子の培養に成功すると、女性が自分たちの分野に入ってくることへの疎ましさがあり、ポターは研究所から疎外され、論文を学会に出しても、女性は学会で発表することすら許されませんでした。
ポターはそのときの無念を日記につづっており
もし、このときに差別がなければ、ポターは著名な研究者になって
ピーターラビットは生まれていなかった可能性も高かったのではないかと言われています。
ポターが絵本作家としての一番最初の動きを見せたのは1890年で、
ベンジャミン・バウンサーと名付けたウサギのペットをモデルにしたクリスマスカードをデザインし、出版社に持ち込みました。
物語を一番最初に出版したのは1901年の『ピーターラビットのおはなし』で、
これは小型で、かつ子どもでも購入できるように安価にしたいと考えたポターでしたが
出版社からは受け入れられず、結局自費出版で250部発行します。
この小さな本はすぐに話題となって1-2週間で売り切れてしまい、200部増刷することになりました。
もともと出版に関して相談していた、湖水地方の牧師であるハードウィック・ローンズリーは、これを商業的に出版できないか奔走して、1902年『ピーターラビットのおはなし』初版8000部が発行されることになります。
これを商業的に出版したのがフレデリック・ウォーン社で、ポターはウォーン社からその後も出版を続けることになります。
ポターはこのウォーン社の創業者の息子で末っ子のノーマンと婚約関係を結んでいたが、彼が他界すると、
悲しみにくれたポターは湖水地方で農場を購入することを決め、当時の日記には農場での仕事がノーマンの死を癒してくれると記されていたそうです。
その後、ポターは印税収入が増えてくると、湖水地方の自然保護活動なども行いますが
次第に目が悪くなっていき、創作活動への意欲も衰えていきます。
1924年にポターは2000エーカー以上の広さの農場を購入し、3つの農場を持つ大地主となります。
ローンズリーが個体数が減少していたハードウィック種とよばれる羊の保護活動をすると、ポターもその保護活動にあたります。
1943年、ポターは亡くなります。77歳でした。