むかちん歴史日記320 九州を舞台に登場する偉人⑤ 東京オリンピック開催に貢献した九州の実業家~安川第五郎
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、九州を舞台に登場する偉人シリーズの第5弾!!!
東京オリンピック開催に尽力した九州の実業家
安川第五郎(1886-1976)
を紹介します(*^▽^*)
http://c.nishinippon.co.jp/photolibrary/cat663/cat/201706_0204.php
◆安川第五郎は1886年に安川財閥創始者である安川敬一郎の五男として、福岡に誕生します。
1906年、福岡県立中学修猷館を卒業、同期にはのちの衆院議員の緒方竹虎、中野正剛などがいました。
1912年、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、日立製作所で1年勤務します。
アメリカの電機メーカー、ウェスティングハウスで研修したのち、1915年に兄の清三郎とともに株式会社安川電機の前身である合資会社安川電機製作所を創設し、モーター・電動機で発展を遂げ、1936年に社長に就任します。
戦時中、大日本産業報国会の理事となり、第二次世界大戦後の1946年に石炭庁長官に就任しますが、
1949年に安川は安川電機会長に復帰し、日銀政策委員や日本原子力研究所初代理事長、日本原子力発電初代社長、九州電力会長など要職を歴任します。
そして1963年に東京オリンピック組織委員会会長に就任します。
安川は、東京オリンピックで国立競技場に翻った五輪旗を、アベリー・ブランテージIOC会長から寄贈され、彼はそれを母校の修猷館高校に寄贈しました。
かつては運動会の行進で使われていたようなのですが
現在はレプリカを使用し、本物は資料館に保管しているそうです。
1970年、電力・原子力事業への貢献と東京オリンピック運営に尽力した功績により、
勲一等旭日大綬章を受章します。
そして1976年、90歳で逝去します。
◆名言
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新しいことをやるときは流行に乗って、やれテレビだ、洗濯機だといたずらに間口を広げるのには賛成しない。2、3年は赤字を出しても、経験を積めば次第にプラスになるような、底堅く将来性のあるものを選んでほしいと思う。
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現在の事業でも、障害は山ほど横たわっている。しかし、これを闘争的に強行することは自分の性格上まずない。必ず迂回作戦をとることになるだろう。目標を失わないようにしていると、急速にはそこに行かないが、結果はそこへ行ってしまう。
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私は中学に入る前、ずいぶん乱暴な連中と一緒だったが、自分では喧嘩をしたことはなかった。これはいまでも変わらない。仕事上でも人生上でも、何か障害があると、それと争って喧嘩をして突破するということは一度もなかった。喧嘩をしないで、そこを避けて通る。どうかすると180度くらい逆行して遠回りをする。しかし結局自分の思うつぼに行ってしまう。
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会社浮沈の瀬戸際に来て、未練がましいことを言っていては何もできない。
モーターの担当者を残した他は全部辞めてもらった。
そのことが今日までの私の生涯中、一番苦難の絶頂であった。
私は涙をのんで訳を話した。
それを言い渡すときの苦しさはいま思い出してもぞっとする。
しかし、みんな私の苦しさと私の考え方をよくくんでくれて、誰ひとり私を恨む者はなかった。
その代わり私は辞めてもらった人たちをどこまでも世話をしてやった。
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私は経営上の経験もなければ経済上の経験もない。
ただ父から「やってみろ」「では」という次第で始まったから、その考えたるや極めてコチコチだった。インチキな仕事は絶対にやらない。
いいものさえこしらえれば人は買ってくれる。
真面目に製品本位でやれば会社の経営は成り立つと思った。
ところが世間はそうスムーズにはいかない。
いいものをつくっても、製品の良し悪しを簡単に認めてくれようとはしない。
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むかちん