むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記364 一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たち④ 軍事力を背景に一時皇帝にも即位した~袁世凱

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たちの第4弾!!!

 

軍事力を背景に一時中華帝国皇帝にまで上り詰めた

 

袁世凱(1859-1916)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E4%B8%96%E5%87%B1

 

袁世凱は、1859年に官僚や軍人を多く輩出している指折りの名家に生まれ、若いころから非常に出世願望の強い人物でした。

 

官僚を志して2度科挙に挑戦しますが、いずれも一回目の試験に合格できず挫折。

そこで軍人になることを志し、1881年には李鴻章幕下の准軍に身を投じて、朝鮮にわたります。

 

朝鮮で起きた1882年の壬午の変、1884年の甲申の変を閔妃の要請の下、清朝に有利となるようにことを運び、朝鮮の内政にも干渉できるほどの大きな権限を持つようになります。

 

袁世凱は日本排除の動きを見せていたが

1894年、日清戦争に清が大敗すると、李鴻章は責任を問われ失脚、袁世凱はここで軍事の近代化の必要性を痛感します。

 

袁世凱は軍の洋式化という任務を負い、

それに合わせた訓練と厳しい規律・統率によって、非常に評価の高い軍隊を作ることに成功します。

これが袁世凱の力の背景となる軍事力となり、のちの北洋軍となるのです。

 

1898年から清では戊辰の変法と呼ばれる康有為、梁啓超らを中心とした政治改革運動が起こり、袁世凱はこれを当初支持していました。

彼が志向する軍の洋式化にもマッチしていたからです。

 

しかし変法派の形勢がよくないとみるや、袁世凱は変法派がクーデターを起こそうとしていることを西太后に密告し、戊辰の政変によって変法派が駆逐されることになります。

ですが、袁世凱はこれによって長く西太后の信頼を得て、権力の中枢に留まるのです。

 

1901年、李鴻章袁世凱に北洋通商大臣兼直隷総督を引き継ぎ、北洋軍が誕生します。

袁世凱は政治的な地位も上がり、その他の有力者が亡くなったこともあって、権勢を強めていきました。

 

1908年、袁世凱が政治家として権勢をふるっていた光緒帝が亡くなり、宣統帝が帝位につくと、幼かった宣統帝に代わって、父の醇親王が政権を摂政として担当します。

 

親王は兄光緒帝を裏切った袁世凱を憎んでいたため、袁世凱を真っ先に中枢から外し、さらには殺害する計画まであったが、それを未然にかぎつけで逃亡。

しかしすべてを失った袁世凱は失意の日々を過ごすことになります。

 

1911年辛亥革命が勃発し、革命派が優位に進むと、これを鎮圧できる人物は袁世凱のみと、彼を内閣総理大臣にして、鎮圧を命じます。

彼は自らは動かずに、一方で革命派と秘密裏に連絡を取りつつ、臨時大総統就任の言質を取り付けると、寝返って、朝廷の要人に政権交代を促します。

 

こうして1912年に清朝は滅亡します。

 

中央の元首が強権をふるうことで国がまとまるという思想の袁世凱に対し、

国民党の実質的指導者の宋教仁は議員内閣制を主張、これが中国では斬新で多くの国民から支持を受けるようになると、自身の権力に影響が出ることを恐れた袁世凱は宋を暗殺します。

 

袁世凱は資金を多くの国々から借款し、インフラ整備に努めましたが、

これに反対し、反乱した孫文らを軍事力で撃退し、彼らは日本へ亡命することになります。

 

そして1916年、皇帝に即位して、国も「中華帝国」と改めます。

 

これには予想以上の反発が起こり、

地方の軍閥は次々と反旗を翻し、足元の北洋軍閥もこぞって袁世凱を批判しました。

 

当初は傍観していた日本もこの評判の悪い状況をみるや、袁世凱を厳しく非難し、1916年しぶしぶ彼は退位することになります。

 

しかし一度失墜した権威を戻すことは容易ではなく、

失意の中、同年病死します。

56歳でした。

 

むかちん