むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記487 平和のために尽くした著名人たち② 平和主義を貫いた名官房長官~後藤田正晴

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は平和のために尽くした著名人たちシリーズの第二弾!!

 

平和主義を貫いた名官房長官として名高い「カミソリ」の異名をもつ

 

後藤田正晴(1914-2005)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

参照元 https://article.auone.jp/detail/1/2/2/2_2_r_20190719_1563487501434825

 

後藤田正晴は1914年に徳島県に誕生し、父は自由党の壮士として出発し、徳島県議会議員も務めました。

 

1939年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業、内務省に入省します。

1940年に陸軍に徴兵され、台湾で経理部将校候補生となり、1945年には主計大尉として、終戦を迎えます。このとき、台湾に中国国民政府軍が進駐し、後藤田も1946年まで捕虜として生活します。

 

同年、復員すると、内務省に復帰、のち警察庁保安部に移ったことをきっかけに警察畑を歩み、内務省廃止後は警察庁に所属して、警察官僚となります。

1969年に警察庁長官に就任。よど号ハイジャック事件あさま山荘事件などの対処に追われます。

 

1972年、警察庁長官を辞任。田中角栄が後藤田を事務方の内閣官房副長官に招き入れました。このときの口説き文句が「内閣改造の暁には大臣にする」ということだったのですが、後藤田は選挙民の洗礼を受けずして、それは受け入れられないとして、断ります。

 

1974年、参議院選挙に徳島選挙区から出馬するも、現職に田中角栄内閣で副総理も務めていた三木武夫(のちの首相)の片腕がおり、この出馬に三木は反発、三角代理戦争・阿波戦争と呼ばれる代理戦争が発生し、熾烈な選挙戦となりました。

この選挙で結局後藤田は敗れることとなります。

 

1976年、衆議院選挙で三木武夫と直接対決し、三木に続く2位で当選。

当選後は自民党田中派に所属して辣腕を振るい、通常当選5回以上で閣僚につくのが当時の慣例でしたが、後藤田は1979年に当選2回で第2次大平内閣の自治大臣国家公安委員会委員長北海道開発庁長官として初入閣します。

 

1982年、中曽根康弘に請われて、中曽根内閣の官房長官に就任。当時は通常総理が自派閥から官房長官を出すのが通例でしたが、田中派の後藤田の能力を買って抜擢しました。

 

後藤田の政治信条に第二次大戦を繰りかえすまいというのは根強くありました。

中曽根内閣の官房長官を務めていた時も、イラン・イラク戦争終結に当たり、海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣する問題が浮上した際には、「私は閣議でサインしない」と猛烈に反対して、中曽根は派遣を断念しました。

 

後藤田は自衛隊を海外へ派遣しない、戦争を引き起こさせないという政治信条のもと、体を張って総理を止めたのです。

総理大臣にもはっきりモノ申す気骨は現在の政治家にはなかなかありません。

 

後藤田は保守政党自民党の中でもハト派と評され、平和主義には強いこだわりを持っていました。

1993年に社会党村山富市が首相に就任した際も「自衛隊について社会党と意見の違いはあるけど、自衛隊武装して海外に出ていくことには反対しなければならない。その点は同じ考えです」と述べ、憲法をなし崩しにして自衛隊を海外へ派遣しようという姿勢には一貫して反対を貫きます。

首相時代の村山にとって後藤田はよき相談相手となりました。

 

また民営化改革や選挙改革に尽くした後藤田は1996年に高齢を理由に政界を引退し、

2005年91歳で逝去します。

 

むかちん