むかちん歴史日記201 ランチタイムに見たいコメディアンシリーズ① 喜劇王~チャップリン
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*'▽')
今日はランチタイムに見たいコメディアンシリーズの第一弾!!
チャップリン(1899-1977)
を紹介します(*^▽^*)
◆チャップリンは1889年にミュージック・ホールの俳優だった両親の下に生まれます。
チャップリンが5歳のときに母がのどをつぶしてしまい、舞台に立てなくなります。
その代打でチャップリンが舞台に出て笑いを取り、観客から喝采を浴びたのですが
母はそれ以降、舞台女優をできなくなり、チャップリンの経済状況は困窮します。
その傍ら、俳優あっせん所にも通い、その後も劇団を転々として、演技のスキルを磨いていきます。
各地に巡業に赴いて、成功を収めて言っている最中、
アメリカ巡業の際に、映画プロデューサーマック・セネットの目にとまり、
週給150ドルの契約で、「キーストン・コップス」で有名なキーストン社(英語版)に入社します。
ここで1914年『成功争ひ』で映画デビュー。
「面白い格好をしろ」と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、
2作目の『ヴェニスの子供自動車競走』に出演。
以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなっていきます。
1915年、シカゴのエッサネイ社に週給1250ドルで移籍。
ドタバタコメディで人気を博します。
1916年、週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金でミューチュアル社(英語版)に迎えられ、ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送りだすことになります。
1936年、機械文明と資本主義を批判した『モダン・タイムス』と、1940年にナチス・ドイツを批判した『独裁者』を発表すると、
この2作品は政治的なメッセージが強いとして、左右両方からの批判にさらされることになります( ;∀;)
1941年にはアメリカが第二次世界大戦に参戦し、映画製作はストップを余儀なくされました。
戦後は米ソ冷戦が激化し、チャップリンの一連の作品は「容共的である」と批判されます(※共産主義を容認している=容共)。
このころはマッカーシー上院議員などを中心に「赤狩り」が行われ、
共産主義勢力の一掃が図られていました。
さらに1952年にはチャップリンに対し、事実上の国外追放が行われ、
アメリカ中から政府に対し、非難が殺到します。
従い、晩年はチャップリンは家族とともにスイスの大邸宅で過ごすことになります。
チャップリンが再びアメリカの地を踏むのは1972年、アカデミー賞名誉賞の受賞の際でした。チャップリンはスタンディングオベーションで迎え入れられました。
1977年のクリスマスの朝、チャップリンは逝去します。
88歳でした。
◆名言
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何のために意味なんか求めるんだ?人生は願望だ、意味じゃない。
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このひどい世の中、永遠のものなんてないのさ。我々のトラブルさえね。
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下を向いていたら、虹を見つけることは出来ないよ。
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人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。
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失敗は重要ではない。自分自身を馬鹿にするのはなかなか勇気がいる。
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私の苦痛が、誰かが笑うきっかけになるかもしれない。しかし、私の笑いが、誰かの苦痛のきっかけになることだけは絶対にあってはならない。
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死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。
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私は雨の中を歩くのが好きなんだ。そうすれば、誰にも泣いているところを見られなくて済む。
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人生は恐れなければ、とても素晴らしいものなんだよ。人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ。
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行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない。
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忘れないで、いつも身をかがめていたら、何も拾いあげられないんだよ。
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私が想像できる最も悲しい事は、ぜいたくに慣れてしまうことだ。
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むかちん