むかちん歴史日記404 中国の歴史的勇士達④ 三国志・蜀の忠義の武将~関羽
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、中国の歴史的勇士達シリーズの第4弾!!!
三国志でも有名な蜀の武将にして、忠義に厚いことで敵からも尊敬される男
関羽(生年不詳ー220年)
を紹介します。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%BE%BD
◆関羽は、現在の中国山西省に生まれ、その後、張角が指導した農民反乱である黄巾の乱が起こると、そこに義勇兵を挙げた劉備や張飛と出会い、劉備の護衛官を務めることになります。
劉備は関羽・張飛に対して兄弟のように恩愛をかけたと言われています。
198年に曹操が呂布を破った際、関羽は張飛とともに武功を認められ、中郎将に任じられます。
これによって、関羽は曹操の捕虜となりますが、曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇します。
曹操が関羽に袁紹の下にいる顔良将軍の討伐を命じると、関羽はこれを見事に討ち取り、首を差し出しました。
曹操自身も悟っていたことではありましたが、関羽はずっと曹操のところにいるつもりはなく、劉備の下に仕え続けるということを決めていましたが、
関羽は忠義や恩義に厚い人物でしたので、曹操に一度助けられた恩義を返すべく、顔良の首を取ったのです。
これには曹操はとても感心したといいます。
208年、劉備は諸葛亮を三顧の礼で迎え入れたが、これには関羽も張飛も不満があったと言います。
しかし、劉備は関羽に対し、「自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものである(水魚の交わり)」と述べ、これをいさめました。
218年、曹操の配下であった候音が関羽と通じて、曹操に対して反乱を起こしますが、これは鎮圧されます。
関羽は最終的には、自身が軽視していた配下に裏切られ、呉の孫権に寝返ったこと、
また孫権の息子の嫁に、関羽の娘を、という提案に対し、使いを罵倒して婚姻を認めなかったことで、孫権の怒りを買い、謀略をめぐらされたことがあり、
また関羽の部下を捕虜にしてわざと厚遇し、その情報を流すことで、関羽軍に戦意を失わせ、彼の軍は四散しました。
義に厚い関羽ではありましたが、最後は油断と驕りによって命を落とすことになるのです。
むかちん