むかちん歴史日記469 歴史の名軍師④ 17世紀ヨーロッパの名軍師~スタニスワフ・コニェツポルスキ
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は歴史の名軍師シリーズの第4弾!!
ヨーロッパの名軍師で、あのスウェーデン王グスタフ・アドルフを何度も退けた名軍師
スタニスワフ・コニェツポルスキ(1591-1646)
を紹介します(*^▽^*)
◆スタニスワフ・コニェツポルスキは、1591年にポーランドで誕生します。
彼の初陣は1610年にロシア・ポーランド戦争への参加でした。
1626年にスウェーデン・ポーランド戦争に参戦、巧みな戦術でスウェーデンの侵攻を退け、「北方の獅子」と呼ばれるスウェーデン王、グスタフ・アドルフに重傷を負わせました。
彼は非常に優れた軍師で、敵国である、ロシア・オスマントルコ・スウェーデン・の長所などをすべて分析して活かしていました。
巧みな外交術で神聖ローマ的子を味方に引いいれて、スウェーデンに対して決定的な勝利を収めます。
グスタフ・アドルフは「北方の獅子」と呼ばれるくらいに強い王でありましたが、このコニェツポルツキには幾度と挑戦すれど、圧倒的な戦闘力と機動力を誇るポーランド軍の前に敗れ去りました。
グスタフ・アドルフが軍の壊滅と自らの戦死を回避するために休戦を選択せざるをえない状況にまて追い込みました。
しかし、コニェツポルツキは、有能な政治家であり、軍人でありましたが、ポーランド議会の代表者に過ぎなかったため、外交的な決定権はありませんでした。
グスタフ・アドルフは絶対王政の君主であったため、外交政策を自由に決定できたので、外交的にはスウェーデンが優位になるよう運び、ポーランドは外交的敗北を喫してしまいます。
従い、スウェーデン軍の駐留する全領土を奪還することは叶いませんでした。
これはポーランドが共和国であったことの弱点を専制君主のグスタフ・アドルフが巧みに利用してきたと言えます。
コニェツポルツキは1646年、50代半ばで急死します。
むかちん