むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記470 日本の名軍師⑤ 最後の日本海軍大将~井上成美

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)

 

今日は日本の名軍師シリーズ第5弾!!!

 

最後の日本海軍大将にして、終戦のために尽力した

 

井上成美(1889-1975)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

Inoue Shigeyoshi.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E

 

◆井上成美は1889年に宮城県仙台市でブドウ園を営む一家の十一男として誕生します。

 「成美」という名は「論語」顔淵篇の一節 「子曰く、君子は人の美を成す、人の悪を成さず、小人はこれに反す」に由来し、

父からそんな人間になるようにと何度も教えられ、本人もその名前を誇りに感じていました。

 

1906年海軍兵学校に合格し、1909年には、海軍兵学校を成績順位179名中2番で卒業し、少尉候補生となり、1910年には海軍少尉となります。

 

1918年にはスイス駐在武官となり、ドイツ人教師について、ドイツ語の個人レッスンを受けて、ドイツ語の習得に励み、ドイツ語の日常会話には支障のない程度になります。

 

さらに1921年からはフランス駐在となり、新たにフランス語を習得。わずか3か月で学んだといいます。同年、海軍少佐となります。

 

1925年、中佐に昇進し、1927年にはイタリア駐在となりますが、ローマに着任した井上はイタリア人やイタリア軍に対してネガティブな経験を重ね、これがきっかけで井上は日独伊三国同盟反対へと回ります。

 

1932年、海軍の青年将校による、犬養毅首相暗殺事件である五・一五事件が起きると、世論がこの将校を英雄視する風潮に危険を覚え、陸軍の青年将校たちも何かを起こすに違いないとして、海軍は海軍省武装で警備するようにしました。

 

1941年、井上は航空本部長で中将となっていましたが、第五次軍備拡充計画を批判し、「新軍備計画論」を執筆します。

そこで井上は海軍の空軍化を主張し、日米決戦では艦隊決戦ではなく、航空基地争奪戦になることを予見し、また米海軍による海上封鎖も的確に予期していました。

 

起こりもしない艦隊決戦の準備をするなどばかばかしいと海軍大臣に主張し、それは皮肉にもこれから起こる太平洋戦争がそれを証明してしまうのです。

 

また井上は日独伊三国同盟にも強く反対しました。

ドイツと手を組むことは米国との関係を悪化させること、そもそもドイツは世界の強国ではない上に、イタリアは三等国であると考え、またドイツ、イタリアのいずれも外交上の不信行為を繰り返した経緯があったため、井上は信用をしていませんでした。

 

井上は非常に合理主義者で、精神主義を嫌いました。

しかし、海軍は合理主義集団である一方、政治性には乏しく、それが陸軍の政治的暴走を止めることができなかった一要因となりました。

 

井上は太平洋戦争開戦後も和平を模索しました。

彼からすれば、日米決戦の敗北は明らかで、海軍兵学校の教育者であった井上は

教育期間を短くして、勝てもしない戦争に送り出すよりもその先の復興のために優秀な人材を育成して、残そうと考えました。

 

いつ戦争をやめるかを模索し続けましたが、

広島・長崎へ原爆を投下され、ようやくポツダム宣言を受諾しました。

 

並ぶ大将連が、いずれも残念そうな顔つきをしていたのに、井上大将だけはひとりすがすがしい顔をしていた、と言われています。

 

戦後、井上は表舞台には現れず、横須賀で英語塾を開いて近所の子供たちに英語を教えました。

しかし、井上は月謝を相場を5分の1程度しか受け取っていなかったのもあり、非常に困窮した生活を送っていました。

これをみたかつての海軍の同僚や部下は涙を流して同情し、様々なかたちで支援しようとしたそうです。

 

1975年、井上は86歳で亡くなります。

 

むかちん