むかちん歴史日記330 ハワイの歴史にまつわる人々の物語⑤ ハワイ真珠湾攻撃を推進し、悲劇の提督と呼ばれた男~山本五十六
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、 ハワイの歴史にまつわる人々の物語シリーズの第5弾!!!
日米開戦に反対したものの、開戦後は前線で戦い続けた真珠湾攻撃推進の提督
山本五十六(1884-1943)
を紹介します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD
1901年、海軍兵学校に200人中2番の成績で入り、日露戦争中の1904年に卒業します。
キリスト教への造詣が深く、いつも聖書を傍らに置いていたそうです。
1905年には日本海海戦に参加。大けがを負います。
1919年にはアメリカ駐在となり、ハーバード大学に留学します。
1924年、山本は砲術から航空へと転科して、航空技術の発展に深く関与していくようになります。
そして1925年には日本初の空母「鳳翔」が完成します。
https://trafficnews.jp/post/82629
1929年、海軍少将として、ロンドン軍縮会議に出席し、軍縮案に強硬に反対します。
海軍内でも意見が割れますが、これが山本を出世へと導くきっかけになります。
1930年には海軍航空本部技術部長に就任し、航空主兵を強力に推進すると同時に、
日本海軍航空機の発展に尽力します。
1936年、二・二六事件と呼ばれる陸軍皇道派によるクーデター未遂事件では、
それに賛同する海軍兵士を一喝し、重傷を負った鈴木貫太郎のために医者を呼びました。
時の総理大臣、岡田啓介の救出にも加わっています。
盧溝橋事件が発生し、日中戦争に拡大したころ、日独伊三国同盟の締結の話が上がり、
山本はこれに強く反対します。
英米との関係悪化で日中戦争の収束が図れなくなること、日ソ開戦となった場合、ドイツは距離が遠すぎて支援が望めないなどの理由からでした。
1939年には連合艦隊司令長官に就任。
山本はアメリカとの国力の差は幾度かの駐在経験で理解していましたが、
その思いとは裏腹に日本はドイツと接近、アメリカとの開戦の雰囲気を漂わせていました。
山本は持論として、アメリカと戦うにはハワイの真珠湾を奇襲する作戦を以前から考えていました。
主力機動部隊を緒戦で壊滅させ戦意をくじく心理的効果と敵の機動力の喪失を狙っていたのです。
そしてマレー作戦など南に転じていきますが、
1943年4月18日、山本を載せた攻撃機はラバウル基地を出発。
ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊の戦闘機により、撃墜され、戦死します。
59歳でした。
◆名言
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やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、
ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
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苦しいこともあるだろう。
云い度いこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣き度いこともあるだろう。
これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。
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博打をしないような男はろくなものじゃない。
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人は神ではない。
誤りをするというところに人間味がある。
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ああ われ何の面目ありて見(まみ)えむ大君に
将又(はたまた)逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし
いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を
華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ
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中才は肩書によって現はれ、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書を汚す。
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むかちん