むかちん歴史日記510 世界四大文明⑨ 中国文明~殷と周
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
◆最古の王朝、殷王朝
竜山文化の終わりごろに黄河流域にはいくつもの共同体が生まれ、この城壁に囲まれた都市を邑といいました。
邑はそれぞれ独立して存在していましたが、強い邑が他の邑を吸収して、国の形を形成していきました。
伝説によると、三皇五帝という神話上の王が君臨した後、禹王が夏王朝という国を作ったのが始まりとされていますが、現在の研究で明確にその存在が確認できる最古の中国王朝は殷です。
殷は紀元前17世紀から紀元前11世紀まで続いたとされる古代王朝です。
この殷は商と呼ばれる大邑を首都としており、これが殷墟として発見されました。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7%E5%A2%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tomb_Fu_Hao_YinXu.jpg
この殷王朝では祭政一致の神権政治が行われ、このときに使われていた文字が甲骨文字と呼ばれています。
参照元 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/e/ef/ChinaOraclebone01.jpg
◆殷の滅亡と周王朝の成立
紀元前11世紀になると繁栄した殷王朝も最後の王紂王の圧政によって、民衆は苦しめられ、ついに殷に服属していた周が殷打倒を目指し始めます。
周の武王は多くの民衆の支持を取り付けて、紀元前1027年に殷を破るといわゆる西周が成立します。
西周は首都を鎬京に定めて、各地の諸侯に、封土という領地を与えて、周王室都の関係性から公・候・伯・子・男という称号を与え統治しました。
各地の諸侯には卿・大夫・士などの世襲の家臣がおり、
諸侯は彼らに采邑という領地を与えて、その見返りに貢納や軍事的貢献を果たす、という主従関係が結ばれるようになります。これを封建制と呼びます。
周王朝では親族の血縁関係に基づく支配構造を確立し、父系の親族集団を宗族とよんで、これを基にして統治します。この秩序を示したものを宗法と呼び、規則を礼といいます。
こののち、周も衰退に向かうと、中国は春秋戦国時代という乱世の時代に突入していくのです。
ちなみにかつてジャンプで連載していた人気漫画『封神演義』は殷王朝の時代が描かれた漫画です(≧▽≦)
参照元 https://ynjn.jp/app/title/314
むかちん
むかちん歴史日記509 世界四大文明⑧ 中国文明~黄河と長江
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今日は世界四大文明の最後、
を紹介します(*^▽^*)
黄河流域 | 長江上流域 | 長江中流域 | 長江下流域 | |||
紀元前8000年以前 | 玉蟾岩遺跡 | 仙人洞・呂桶環遺跡 | ||||
7000 | 6000 |
彭頭山文化 | |||||
6000 | 5000 |
湯家崗文化 | 城背渓文化 | ||||
5000 | 4000 |
仰韶文化 | 馬家浜文化 | 河姆渡文化 | |||
4000 | 3000 |
大渓文化 | 崧沢文化 | ||||
良渚文化 | ||||||
3000 | 2000 |
竜山文化 | 宝墩遺跡(龍馬古城) | 屈家嶺文化 | |||
三星堆遺跡 | 石家河文化 | |||||
2000 | 1000 |
二里頭文化(夏?) | 馬橋文化 | ||||
二里頭文化 | ||||||
二里岡文化(殷遷都前) | 二里岡文化 | |||||
殷遷都後 | 殷 | 呉城文化 | 湖熟文化 | |||
周 | 周 | 楚 | ||||
1000以降 | 巴蜀 | |||||
呉越 |
参照元 https://sekainorekisi.com/glossary/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E/
◆中国文明って・・・
「中国文明」という言い方に何やら聞きなれなさを感じる人いませんか・・??
そう、僕も含めて、ひと昔前の皆さんは学校で「黄河文明」と教わるのです・・・
が、しかし・・・!
1970年代以降の研究では長江の流域でも古い稲作文明の報告が上がるようになり、
黄河文明のみならず、長江文明の存在も確認されることから「中国文明」という言い方のほうが現在はポピュラーになってきています(*^▽^*)
参照元 http://www.koharu-home.jp/new2017/oct2017/michiko/newpage1.html
◆文明の興り
黄河や長江の流域では農業などの原始的な文明が紀元前4000年〜紀元前3000年ごろから始まり、土器なども製作していました。
紀元前3000年から紀元前2000年ごろになると、黄河と長江を含む幅広い地域で竜山文化が興り、それぞれの地域で支配者層は権力を持ち始めました。
◆黄河文明
黄河流域には黄土によって肥沃な土壌が広がっていました。
前期を仰韶文化、後期を竜山文化と称します。
彩陶と呼ばれる土器を利用しました。
黄河の下流で発見された竜山文化の遺跡は、紀元前3000年から紀元前2000年くらいのもので、城壁のある集落の跡地であり、殷の前身となるものだと考えられています。
◆長江文明
黄河流域とほぼ同時代に都市文明を形成していたことが判明しています。
水稲栽培もおこなっており、日本に伝わった稲作もこの長江から福建・台湾・沖縄経由で伝来したものではと考えられています。
大規模な集落の中からは神殿や祭壇なども発見されていて、貴族・戦士と奴隷の階層に分かれていたことも見て取れます。
良質な玉器が発見されたのも中国では初めての出来事です。
むかちん
むかちん歴史日記508 世界四大文明⑦ インダス文明~謎多きインドの古代文明
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今回は世界四大文明でも最も謎に包まれた文明である
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://www.y-history.net/appendix/wh0201-001.html
インダス川流域には文明が興る以前、おおよそ紀元前7000年ごろくらいには農耕文化があったとされています。
そして紀元前3000年ごろには集落が形成されていったと言われています。
そこから紀元前2300年~紀元前1700年ごろ青銅器で栄えた都市文明がインダス文明です。
このインダス文明の特徴は、
・同時代のどの都市よりも整然と都市計画によって作られている。
・公共的な建造物と思われる沐浴場や学校、倉庫などが存在した。
・インダス川を利用した灌漑農業がおこなわれていた
・青銅器を使っている。
・彩文土器の使用
・インダス文字を使用(現在に至るまで未解読)
・神殿や墓が存在しないために政治体制が不明。
有名な遺跡として、中流域のハラッパーや下流域のモヘンジョダロが有名です。
参照元 https://smile-travel.jp/mohenjo-daro.html
これほど精密に都市設計がされている都市文明は同時代の他地域では見つかっていません。道路も舗装されていて、家の強固な煉瓦作りの家でした。
また青銅・金・銀・宝石などの出土品から、諸都市やメソポタミアなどとも交易をしていたことがうかがえます。
巨大な王墓や彫像は全く出土されておらず、また、インダス文字が解明されていないことから、その政治体制などは現在に至ってもなお、不明です。
このインダス文明がなぜ衰退したかもいまだわかっておらず、
気候変動、過度の森林伐採など諸説が挙げられています。
むかちん
むかちん歴史日記507 世界四大文明⑥ メソポタミア文明~アッシリアからメソポタミア文明の終焉
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今回も引き続き、メソポタミア文明についてお話させていただきたいと思います✨
参照元 https://sekainorekisi.com/glossary/%e3%83%92%e3%83%83%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%88/
◆ヒッタイトによる征服
紀元前1700年ごろ、鉄製の武器を持ったヒッタイトが小アジアで強力な国家を建設しました。
前回お話したとおり、紀元前1595年にこのヒッタイトがメソポタミアに侵入して、古バビロニア王国を滅ぼします。
紀元前13世紀になるとシリアをめぐってエジプトと対立し、ヒッタイト王ムワタリとエジプト王ラムセス2世率いる両軍はカデシュの戦いで衝突します。
結局両軍膠着状態に陥り、平和条約が結ばれ、碑文が刻まれました。
そんなヒッタイトも紀元前1190年ごろに謎の民族、海の民によって滅ぼされます。
海の民が自ら国家を建国することはありませんでした。
◆アッシリアの征服
一方で西アジアにはミタンニやカッシートといった民族の王国の成立していました。
そのなかで当初ミタンニ王国に服属していたアッシリアが独立し、鉄製の武器と戦車によって勢力を拡大、サルゴン2世のときにオリエントの大半をアッシリアが統一しました。
そしてアッシュールバニパル王のときにエジプトの征服、西アジア最初の世界帝国を形成します。
このアッシュールバニパルは首都をニネヴェに移して、世界最古の図書館を建設したことで知られ、粘土板の図書3万枚を集めたと言われています。
参照元 http://zbtn.hatenablog.com/entry/2016/03/25/%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6#%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8
◆新バビロニアの繁栄と滅亡
しかし、このアッシリアも苛烈な専制支配を行ったため、カルデア・メディア連合軍によって滅ぼされ、オリエントはエジプト、リディア、新バビロニア(カルデア)、メディアの4王国に分立しました。
この中でも新バビロニアが最も栄えました。
リディアは世界で最初の貨幣を鋳造した国として知られています。
参照元 http://eurekajwh.hp.infoseek.co.jp/kougi/kougi/nisiA/ori02.html
新バビロニアのネブカドネザル2世はバベルの塔やイシュタル門、空中庭園などを建設したほか、新バビロニアを裏切ってエジプトについたユダ王国を滅ぼし、バビロン捕囚と呼ばれるユダヤ人の大量移送を行いました。
しかし、メディアに代わってアケメネス朝が興ると、紀元前539年に新バビロニアはアケメネス朝に滅ぼされ、バビロン捕囚で連行されたユダヤ人は解放されました。
このアケメネス朝はメソポタミアの文明を継承する王朝でしたが、そのアケメネス朝も紀元前4世紀にギリシア人のアレクサンドロス大王の東方遠征によって滅ぼされるのです。
むかちん
むかちん歴史日記506 世界四大文明⑤ メソポタミア文明~ウル第三王朝と古バビロニア王国
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今日もメソポタミア文明について語ります✨
前回の続きです。
◆ウル第三王朝
アッカド王国が滅亡したあと、シュメール都市国家が復興し、短期間ではありましたが、ウル第三王朝がメソポタミアを支配しました。
シュメール人がメソポタミアを統一したのは初めての出来事でした。
このウル第三王朝で世界最古の法典と呼ばれる「シュメール法典」が作られました。
しかし他の都市が次第に力をつけてくると、ウル第三王朝は分裂状態に陥り、東方はエラム人に侵攻され、西方ではアムル人の領内への移住が激しくなりました。
その結果紀元前2004年にエラム人によってウル第三王朝は滅ぼされます。
その後、シュメール人の残存勢力であるイシン王国、アムル人のラルサ王国、バビロンにアムル人のバビロニア王国が誕生し、この3国で抗争を繰り返した結果、バビロニア王国が残ります。
紀元前19世紀ごろ、アムル人がバビロニアのバビロンを都にして建国した王朝がバビロン第一王朝で、これを古バビロニア王国と呼びます。
紀元前18世紀の後半に第6代の王であるハンムラビ王が周辺諸国を倒して、メソポタミアを統一しました。
ハンムラビは交通網の整備を行うと同時にハンムラビ法典と呼ばれる法典碑を作らせ、
これが有名な「目には目を、歯には歯を」という同害復讐原理で知られています。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%93%E6%B3%95%E5%85%B8#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Milkau_Oberer_Teil_der_Stele_mit_dem_Text_von_Hammurapis_Gesetzescode_369-2.jpg
またこの法典は楔形文字と呼ばれる文字で書かれています。
この法典に基づいて、裁判が行われたという記録はなく、どちらかというと模範判例集のような側面が強かったようですが、多数の記録によれば、ハンムラビが領内で裁判の監督を行い、場合によっては自ら裁定を下していたようです。
ハンムラビの死後、東方山岳民族のカッシートの攻撃を受けて衰退していき、紀元前1595年、小アジアに興ったヒッタイトの攻撃を受けて、古バビロニア王国は滅亡します。
むかちん
むかちん歴史日記505 世界四大文明④ メソポタミア文明① 都市国家の成立とアッカド人による征服
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今日からは世界四大文明の一つ、メソポタミア文明を取り上げていきます✨
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:N-Mesopotamia_and_Syria_english.svg
◆都市国家の成立
メソポタミアは「川の間の地」という意味でその名の通り、チグリス川とユーフラテス川の流域の肥沃な土地で栄えた文明です。
紀元前3500年から紀元前3000年ごろにシュメール人による都市国家が多く形成されたことで、メソポタミア文明が生まれました。
おおよそ、現在のイラクおよびトルコ、シリアの一部地域がメソポタミアが栄えた肥沃な三角地帯と呼ばれる地域になります。
このシュメール人が建設した都市国家は3つあり、ウル、ウルク、ラガシュと呼ばれ、その都市国家の中心部には神殿・聖塔としてジックラトが建設されました。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Choghazanbil2.jpg
◆アッカド人の征服
都市国家間の争いが絶えなかったことから、シュメール人の都市国家は衰退していき、紀元前2350年ごろ、アッカド帝国のサルゴン1世がメソポタミアのほぼ全域を支配します。
参照元 http://barbarossa.red/sargon-akkad/
アッカド人の支配下に置かれ、各シュメール都市でもアッカド語が共通語として話されるようになります。
しかし、そこから約150年後には再び紛争状態に突入し、都市国家はそれぞれ独自に発展を遂げていきます。
むかちん
むかちん歴史日記504 世界四大文明③ エジプト文明~中王国から新王国
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今日はエジプト文明の中王国から新王国までをお話します(*^▽^*)
◆エジプト中王国
前回お話した古王国が第6王朝末期に王が権力を失ったために、エジプトは第一中間期という長い混乱期に突入しました。
その混乱期を収束したのが、第11王朝の王メンチュヘテプ2世で、紀元前2040年に再びエジプトを統一しました。
このときの首都はメンフィスではなく、テーベで、これ以降の時代を中王国と呼びます。
政治的・文化的にも繁栄したこの中王国時代ですが、
紀元前17世紀に初めて異民族の侵入を経験することになります。
馬と戦車を用いて農耕民族であったエジプトを圧倒しました。
このヒクソスが支配した時代を第二中間期と呼称しますが
支配を受けると同時にエジプトは軍事力を手に入れることになるのです。
◆エジプト新王国
第二中間期にヒクソスが支配していた政権を第15王朝と呼びますが、テーベの政権である第17王朝のイアフメス1世が3代にわたる戦いを制して、ヒクソスを駆逐し、エジプトの再統一を果たしました。
この再統一以後の政権を第18王朝と呼称し、17と18は連続した王朝になります。
紀元前15世紀のトトメス3世を代表とする歴代の王たちは征服活動を積極的に行い、
西アジアに進出、ミタンニなどと戦い、ナイル川上流のクシュ王国も服属させ、エジプト王国最大の領土を形成していきます。
歴代の王たちは遠征の後に国家神であるアメンに戦勝を謝すために、アメン神殿を各地に作り、その神官たちの権限は絶大なものとなっていきます。
参照元 http://www.obelisks.org/karnak_j.htm
※アメン大神殿の入り口
こうした神官の権力の拡大をそぎ落としにかかったのが、アメンホテプ4世です。
彼はアメン神信仰を排除し、アテン神を唯一神とするアテン信仰へと切り替えます。これがアマルナ革命と呼ばれる宗教改革です。さらに首都をアケトアテンへと遷都し、アマルナ美術よ呼ばれる芸術も誕生しますが、このアテン神が広く受け入れられることはありませんでした。
参照元 http://www.ikken.net/?p=212
※アメンホテプ4世王妃ネフェルティティの胸像
エジプトの美術品で現代までほぼ無傷のかたちで伝わっていることで有名なツタンカーメンもこのころの人物です。
彼自身の功績が有名というわけではありませんが、彼の墓の副葬品が現代までに伝わり、エジプト美術の最高傑作と言われます。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
そして新王国で史上最大の建築活動を行ったと言われるのがラムセス2世です。
ヌビアに建設されたアブ・シンベル宮殿などが有名です。
参照元 http://www.intweb.co.jp/egypt/egypt07.htm
これだけ繁栄したエジプト新王国時代ですが、
第20王朝のラムセス3世以降、急速にその王権は衰えていき、逆に勢力を伸ばしたテーベのアメン神殿が事実上の国家を樹立して、再び統一の時代は失われていくのです。
むかちん