むかちん歴史日記506 世界四大文明⑤ メソポタミア文明~ウル第三王朝と古バビロニア王国
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)
今日もメソポタミア文明について語ります✨
前回の続きです。
◆ウル第三王朝
アッカド王国が滅亡したあと、シュメール都市国家が復興し、短期間ではありましたが、ウル第三王朝がメソポタミアを支配しました。
シュメール人がメソポタミアを統一したのは初めての出来事でした。
このウル第三王朝で世界最古の法典と呼ばれる「シュメール法典」が作られました。
しかし他の都市が次第に力をつけてくると、ウル第三王朝は分裂状態に陥り、東方はエラム人に侵攻され、西方ではアムル人の領内への移住が激しくなりました。
その結果紀元前2004年にエラム人によってウル第三王朝は滅ぼされます。
その後、シュメール人の残存勢力であるイシン王国、アムル人のラルサ王国、バビロンにアムル人のバビロニア王国が誕生し、この3国で抗争を繰り返した結果、バビロニア王国が残ります。
紀元前19世紀ごろ、アムル人がバビロニアのバビロンを都にして建国した王朝がバビロン第一王朝で、これを古バビロニア王国と呼びます。
紀元前18世紀の後半に第6代の王であるハンムラビ王が周辺諸国を倒して、メソポタミアを統一しました。
ハンムラビは交通網の整備を行うと同時にハンムラビ法典と呼ばれる法典碑を作らせ、
これが有名な「目には目を、歯には歯を」という同害復讐原理で知られています。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%93%E6%B3%95%E5%85%B8#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Milkau_Oberer_Teil_der_Stele_mit_dem_Text_von_Hammurapis_Gesetzescode_369-2.jpg
またこの法典は楔形文字と呼ばれる文字で書かれています。
この法典に基づいて、裁判が行われたという記録はなく、どちらかというと模範判例集のような側面が強かったようですが、多数の記録によれば、ハンムラビが領内で裁判の監督を行い、場合によっては自ら裁定を下していたようです。
ハンムラビの死後、東方山岳民族のカッシートの攻撃を受けて衰退していき、紀元前1595年、小アジアに興ったヒッタイトの攻撃を受けて、古バビロニア王国は滅亡します。
むかちん