むかちん歴史日記401 中国の歴史的勇士達① 秦代末期の名将にして、悲劇の武将〜項羽
新宿から歴史を発信!!!
むかちんです(≧∀≦)
今日は中国の歴史的勇士達シリーズの第一弾!!!
強さを誇るも最後は自身で命を絶った
項羽(紀元前232年ー紀元前202年)
を紹介します。
参照元
https://www.sekainorekisi.com/my_keywords/%E9%A0%85%E7%BE%BD/
◆項羽は紀元前232年、楚の将軍であった項燕の孫として生まれ、
彼は伝承によると188-192センチの大男に成長したそうです。
秦の始皇帝が亡くなり、陳勝・呉広の乱が勃発すると楚の名門出身である項羽も挙兵します。
秦の大軍に連戦連勝を果たし、秦を滅ぼして、秦の兵士20万人も生き埋めにします。
そして、秦の都咸陽へ入城します。
すると、そこには先に劉邦がいました。
武功を横取りされたと感じた項羽はこれに激怒しますが、劉邦はこれを謝罪し、この時点では収束します。
咸陽を焼き払って、富を略奪した項羽は楚へ帰国し、自ら「西楚の羅王」と称します。
しかし、斉の王族田栄が、項羽に対して挙兵すると、項羽に不満を抱いていた諸侯が次々と挙兵し、劉邦の挙兵します。
反乱鎮圧に手を焼く項羽は劉邦の漢軍に苦戦、次第に劣勢になっていき、
垓下の戦いでついに項羽は30万の軍勢に取り囲まれることになります。
この時に、敵軍から項羽の祖国である楚の歌が聞こえてきたことに、項羽は楚人の裏切りをさとり、絶望します。
この時の故事成語が「四面楚歌」です。
項羽はこの時の愛人の虞美人(ぐびじん)に歌を捧げています。
「力は山を抜き気は世を蓋う。時、利あらずして騅(すい)(愛馬の名)逝かず。騅逝かざるは奈何(いかん)すべき。虞や、虞や、若(なんじ)を奈何せん。」
私の力は(動かないものの代表である)山をも動かす程強大で、気迫は(広いものの代表である)この世の中をおおい尽くしてしまう程なのに。時勢は私に不利であり、(愛馬の)騅も進もうとしない。騅が進もうとしないのを、もはやどうする事もできない。(それよりも)虞よ、虞美人よ。そなたの事を一体どうすれば良いのか。
項羽は最後の戦いで、漢軍の中に旧知の部下がいることを悟ると、
自分の首にかけられた褒賞をやろうと言って、自らで首をはねます。
しかし、項羽討伐の褒賞を得るために兵士が群がり、争い、項羽の亡骸は5つに裂かれたと言われています。
むかちん