むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記442 世界の歴史小説の題材となった人物② 前漢最盛期の皇帝~武帝

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は世界の歴史小説の題材となった人物シリーズの第一弾!!!

前漢最盛期の皇帝


武帝(紀元前141-紀元前87)


を紹介します(*^▽^*)

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参照元 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)


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参照元 
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%B2%E8%A8%98-%E6%AD%A6%E5%B8%9D%E7%B4%80-%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8C%97%E6%96%B9-%E8%AC%99%E4%B8%89/dp/4758437262


武帝前漢の景帝の十男として紀元前141年に誕生します。

武帝は4歳のときに膠東王(山東省にあった王国)に封ぜられました。


武帝は十男であったため、だれも彼が皇帝になるなど思っていませんでした。


栗夫人が生んだ景帝の長男、劉栄が皇太子となりましたが、景帝の姉である劉嫖は、栗夫人が嫌いであったためにこれに口をはさみ、なんと王夫人の子どもである武帝を推薦したのです。


実は栗姫も劉栄も皇太子になってから、勢いづいていたため、景帝から煙たがられ、劉嫖の意見が通り、武帝が16歳で皇帝即位します。


即位当初は武帝の祖母にあたる太皇太后・竇氏(とうし)が実権をにぎりました。


この目の上のこぶとなっていた祖母が亡くなると、武帝は持ち前の政治手腕を発揮するようになります。


景帝時代に勃発した呉楚七国の乱の反省を踏まえ、武帝は中央集権体制に移行することに注力し、一方で諸侯王たちにも配慮して、その領地を親族に分け与えることを許す、推恩の令を出します。

この裏には諸侯王の土地を細分化する狙いがありました。


また武帝はよりよい人材を集めるべく、各地の人材発掘のため郷挙里選を制定します。

さらに董仲舒の助言により、儒教を官学として五経博士を設置して、儒教の教養を身に付けた人物を積極的に中央に呼び寄せる政策を打ちました。


そして武帝は外征でもその名をとどろかせます。

漢の高祖、劉邦の時代から北方民族の匈奴に対しては及び腰でしたが、武帝は一転して攻めに出て、苦戦も強いられますが、衛青・霍去病の活躍により、匈奴を屈服させ、

さらに中央アジアの征服や
千里を駆け抜けると言われる汗血馬を手に入れて、
ベトナム北部にあった南越国衛氏朝鮮を滅亡させて、郡を設置するなど、

武帝は外征でもその手腕を発揮、前漢の最盛期を築き上げました。


しかし、おごれるもの久からずとはよく言ったもので、彼は自身への過信と周囲への不安に苛まれ、
諫めるものを遠ざけ、甘いことをいう人間を傍らに置くようになります。

彼は不老長寿を願うようになり、放漫にお金を使い、財政は悪化、それを民衆に転化すると、次々に反乱が勃発し、ついに太子までが反乱を起こさざるをえなくなってしまうのです。


長い間空白だった皇太子を定めた直後の紀元前87年、武帝はその生涯を終えます。


むかちん