むかちん歴史日記372 経営者が勧める本の著者たちーランチや休みにオススメ② 世界的有名な歴史書の著者~司馬遷
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、経営者が勧める本の著者たちーランチや休みにオススメシリーズの第二弾!!
今日は世界でも名著と名高い歴史書を書いた
司馬遷(紀元前145?-紀元前87?)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7
『史記』の編纂は司馬家の一大プロジェクト
◆司馬遷は、現在の中国陝西省に生まれ、司馬遷の家系は代々歴史や天文をつかさどる一家であったそうです。
そこで10歳になるまで過ごしたのち、『書経』を学んだ師とされる孔安国が当時、侍中の任についていたことから、司馬遷は長安に移ったと考えられています。
司馬遷は20歳で中国各地へ大旅行をし、22歳ごろ、郎中に任命されます。
彼が仕えた武帝は生涯において、何度も巡遊を行い、郎中の司馬遷も何度も付き従ったとされます。
父親が亡くなる際に、司馬遷に遺言で、「第二の孔子になれ」といったとされます。
おそらくこれが司馬遷に『史記』を書かせるきっかけとなったのでしょう。
司馬遷はその能力を武帝に高く買われており、司馬遷もまた武帝の期待に応えるとして、職務に専念し、武帝とともに巡遊も重ねました。
そして紀元前104年、司馬遷はいよいよ『史記』の編纂に取り掛かります。
彼は20歳ごろの大旅行や、武帝とともに重ねた巡遊によってかなりの知見を得ていました。
どんな恥辱を受けても『史記』の完成のために生きる
この匈奴との闘いは漢にとって重要な課題であり、前99年、武帝は派兵を決断しますが、李陵という将軍が単独行動を願い出ます。
この李陵は敵地に深く入り、様々な情報収集などの面で功績を挙げますが、運悪く3万を超える敵軍に包囲されてしまい、李陵は投降します。
本来であれば自刃すべきであるところを投降した李陵に対し、武帝は激怒します。
これを一人弁護したのが司馬遷でした。
しかし、のちに李陵が匈奴で兵として訓練を受けているとの誤報が入り、
これを真に受けた武帝は李陵の一族を処刑し、司馬遷は男性器を切られるという罰を受けます。
これは司馬遷にとっては最大の恥辱となりました。
ここで彼が自害しなかったのは『史記』の編纂という使命があったからだと考えられています。
そこから彼がどのように生きたかは定かでない部分が多いですが、亡くなったのは前87年ごろではないか、とされています。
『史記』は2000年後の僕らにも教訓を与える
この『史記』が経営者に読み継がれる理由として、
歴史の本質や、不条理についてのクリティカルな問いかけがあるからです。
司馬遷は「天道、是か非か」という問いかけを発しています。
司馬遷は自ら先述した「李陵の禍」と呼ばれる災難に遭い、
「天道とは何か」と考えるようになります。
彼は「天命には抗えない」と言っているのではなく、
厳しい歴史の中でもがき、それでも前進し、そこから学び、
歴史の不条理の中に生きる人間像を描き出しています。
そこから得られる教訓は現代に通ずるものでもあり、
2000年以上経過した現在でも読みつかがれているのです。
◆名言
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断じて行えば、
鬼神もこれを避く。
意味
人が決断して物事を行えば、鬼神でさえもその人の邪魔をすることは出来ない。
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士は己を知る者のために死す。
意味
人間は自分のことを認めてくれる人には、命を捨てることもいとわずに尽くすもの。
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先(ま)ず、隗より始めよ。
意味
物事を始めるのなら、まず自分から始めなければ、誰もついてはこない。
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寧(むし)ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ
意味
大きな集団の尻尾にぶら下がるような存在になるくらいなら、
小さな集団の先頭に立って戦おうではないか。
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桃李言わざれども、下自ら蹊を成す。
意味
桃や李(すもも)の木のように魅力のある人物の下には、
何も言わなくても自然と人が集まってくる。
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知ることが難しいのではない。
いかにその知っていることを、身に処するかが難しいのだ。