むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記106 足尾銅山で戦った〜田中正造

新宿から歴史を発信!!むかちんです☆

 

今日は足尾銅山鉱毒事件で天皇に直訴した

 

田中正造(1841-1913)

 

を紹介します😃😃😃

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0

 

1878年から区会議員として活動を始めます。

大隈重信により立憲改進党が結党されると、田中もそこに参加しました。

 

1890年衆議院議員選挙の栃木3区から出馬、国政も立憲改進党に所属し、当選します。

この年に渡良瀬川で洪水が発生し、上流にある足尾銅山から流れた鉱毒により、

稲が立ち枯れるという事件が発生し、騒ぎとなりました。

 

1897年に農民の鉱毒反対運動が激化し、田中も国会で質問しましたが、効果は薄かったようです。

1900年には川俣事件と呼ばれる、警察隊との衝突が発生し、流血の惨事となりました。

この事件に関し、田中は「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」という憲政史上に残る大演説を行った。

だが、当時の総理大臣、山県有朋は答弁を拒否している。

 

1901年には田中は議員辞職します。

この年の12月10日、田中は東京・日比谷において、明治天皇足尾銅山鉱毒事件について直訴します。

 

警官に取り押さえられ、直訴そのものは失敗しますが、東京中の騒ぎとなり、一躍注目されることになります。

この直訴状は幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したものでした。

 

1913年に田中は亡くなりますが、

鉱毒反対運動などに財産を使い果たし、無一文であったと言われています。

足尾銅山は1973年に閉山され、その跡は今も残っている。

田中の直訴状は、2013年に今上天皇に渡されました。

 

未遂から113年後の出来事でした。

 

◆名言

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真の文明は
山を荒らさず
川を荒らさず
村を破らず
人を殺さざるべし

 

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民を殺すは
国家を殺すなり
法をないがしろにするは
自ら国を毀(こぼ)つなり
財用をみだり
民を殺し法を乱して
しかして亡びざるの国なし
これを如何

 

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人間は終局を思うようなことでは、
仕事はできん。
道は俺が開いてやる、
開けるだけ開いてやる、
後の始末はしてくれよ。
という考えでなければ、
何事もできないよ。

 

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むかちん