むかちん歴史日記218 音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズ③ ドイツ歌曲の王~シューベルト
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズの第三弾!!!
ドイツ歌曲の王
シューベルト(1797-1828)
を紹介します(≧▽≦)
◆シューベルトはウィーン郊外で教師の父と元コックの母との間に誕生し、
シューベルトは7歳になると音楽の才能を発揮し始め、
ミヒャエル・ホルツァーが指導する聖歌隊に預けます。
ホルツァーは彼の才能に一目を置き、
聖歌隊に隣接するピアノ倉庫を使えるように便宜を図り、
そのおかげで貧しいシューベルトでは触れられなかったようなピアノを使うことができました。
1808年にコンヴィクトと呼ばれる寄宿制の神学校に通い、
ここの宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室に17歳まで所属します。
学生オーケストラの練習や寄宿生との交流のなかでシューベルトは多くのものを得て、
このころより作曲の分野で才能を示しつつありました。
日曜や祝日に兄や父と自宅でカルテット演奏会を行っていた関係で
楽曲は室内音楽がほとんどでした。
1813年、彼は変声期を迎えていたため、合唱は不可能と判断し、コンヴィクトを去ります。兵役をのがれるため、教師として働き始めます。
1816年、コンヴィクト時代の友人の友人がシューベルトの曲を聴き、
教師を辞めて芸術を追求しないかと持ち掛けます。
彼はそれに応じ、作曲に専念するようになります。
そして1818年には初めて自身の作曲した曲の公演が行われます。
1820年ごろ、彼の曲はそれまでアマチュアオーケストラとして限定的な感じであったので、この時、広く一般に親しまれるものを作る必要が出てきました。
シューベルトの『魔王』は彼が一般広く注目される契機となった曲の1つです。
一時はなかなかうまくいかなかったシューベルトたちですが
そこから抜け出し、
晩年まで曲を書き続けます(#^^#)
没後は歌曲の王という位置づけがなされていたものの、
それ以外の『未完成交響曲』や弦楽四重奏曲『死と乙女』のような重要作を除いては
放置に等しい状況だったそうです。
シューマンが一部を発見し、世に送り出しました。
また彼は大量に曲を遺して亡くなったため、
20世紀に入ってもシューベルトの曲は難航し、残った楽譜でも例えば
デクレシェンドだったのかアクセントなのかわからない部分があったり、
様々な謎が残っている。
むかちん