むかちん歴史日記日記219 音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズ④ 近代彫刻の父~ロダン
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズの第4弾!!!
近代彫刻の父
ロダン(1840-1917)
を紹介します。
◆1840年、パリ在住の労働者の階級の家庭に生まれます。
ロダンは美術の専門教育は受けたことがなく、ほとんど青年期に独学で学んだそうです。
10歳のときに初めて絵を描いたことで、美術に興味を持ち始め、14歳のときにプティット・エコールと呼ばれる工芸学校に入ります。
プティット・エコールを17歳で出たロダンは学業継続を希望して、エコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願するも受け入れられず、
失意の中にあったロダンをさらに襲ったのが、経済的に支えてくれた姉の死でした。
彼女は修道女になっていたため、ロダンも姉の遺志を継いで、修道士を目指そうとしますが、ロダンのは向いていない、美術を継続すべしと諭され、修道士も断念します。
ロダンは24歳で結婚し、子供も授かりますが、普仏戦争の影響で仕事が減少して、経済が苦しかったため、職を求めてベルギーへと移住します。
このベルギー時代がロダンの作品には大きな影響を与えます。
そのベルギー滞在中に生活費を節約して工面したお金で妻とイタリア旅行に出かけますがそこで出会ったドナテッロとミケランジェロの彫刻に、ロダンは大きな影響を受けます。
その後に作ったのは『青銅時代』と呼ばれる男性像の彫刻でしたが
あまりに精緻なため実際の人間から型を取ったのではと疑われました。
これに憤慨したロダンはさらに大きなサイズのものを制作し、ようやく認められ、
ロダンの名はフランス中にとどろくようになりました。
1880年、ダンテの元に国立美術館を設立するからモニュメントの製作をしてほしいという依頼が来ます。
このモニュメントはルネサンス期の大家、ダンテの『神曲』に登場する『地獄の門』でした。
ロダンはこのころ、教え子のカミーユ・クローデルに夢中になりますが、
カミーユに妻のローズか自分にするのかと迫られ、ローズのところへ逃げたときには
カミーユは精神病院へ入ることになってしまいます。
1889年、こうした背景もあり、地獄の門をのぞき込む男の彫刻をロダンは発表します。
その姿はカミーユ、ローズとの間にできた認知していない子供もいて、
それを見て苦悩する男の姿を現しています。
これが世にいう『考える人』です。
考える人という名前はロダンがつけたものではなく、鋳造した職人がつけたものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BA%BA_(%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3)
1917年、77歳でロダンはこの世を去ります。
地獄の門は結局未完のままおわりました。
◆名言
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低級な芸術家たちは、常に他人の眼鏡をかける
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自然は常に完全である。決してまちがわない。まちがいは我々の立脚点、視点の方にある
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芸術とは、自然が人間に映ったものです。大事なことは、鏡をみがくことです
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もし仕事というものが、人間にとって生きることのあがないではなく、生きることの目的であったら、人間はどんなに幸福だろう
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真の芸術家とは、喜びのために仕事をする唯一といってよい人達だ
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かぶりついて仕事せよ
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天才?そんなものは決してない。ただ勉強である。方法である。不断に計画しているということだ
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肝心なのは感動すること、愛すること、希望を持つこと、打ち震えること、生きること。芸術家である以前に、人間であることだ
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むかちん