むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記260 歴史に残る名優をめぐる旅行⑤ 鬼気迫る演技で魅了した~田宮二郎

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は歴史に残る名優をめぐる旅行シリーズの第5弾!!!

 

鬼気迫る演技で視聴者をくぎ付けにした

 

田宮二郎(1935-1978)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://cinema.ne.jp/recommend/jirotamiya2016021411/

 

田宮二郎は1935年に大阪で生を受けます。

生後4日で、住友財閥の大番頭だった父親が亡くなり、母親も戦後まもなく亡くなってしまうので、京都の親族に育てられます。

 

学生時代は外交官を志望していましたが、

1955年にスポーツニッポン社主催の「ミスターニッポンコンテスト」で優勝を果たしたのをきっかけに、

大映演技研究所10期生として大映に入社します。

 

田宮は長らく端役が多かったのですが、山崎豊子原作の『女の勲章』の演技で注目を集めると、その後は勝新太郎と共演した『悪名』で一気にスターになります。

 

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参照元 

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=140165

 

この『悪名』は人気となり、長きにわたってシリーズ化され、

田宮もこれらの演技が評価され、エランドール新人賞を獲得します。

 

そのルックスと演技力から大映の看板俳優となり、若尾文子の相手役としても多く出演しました。

 

1966年、山崎豊子原作『白い巨塔』で財前五郎を演じたことにより、その名声は決定的なものとなりました。

 

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参照元 

https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BD%E3%81%84%E5%B7%A8%E5%A1%94-VHS-%E7%94%B0%E5%AE%AE%E4%BA%8C%E9%83%8E/dp/B00005GE9N

 

田宮は映画『不信のとき』の宣伝ポスターで序列が4番目に来ていたことに抗議、

これをきっかけに撮影所長、ないしは所属事務所の社長ともめ、

ついには田宮は事務所を解雇されてしまいます。

 

映画界から完全に干された田宮は、地方巡業を行ったり、

映画人としては、当時不本意とされていたテレビでの司会などの仕事をしました。

これが『クイズタイムショック』『田宮二郎ショー』であり、当時はカラーテレビ普及率がほぼ100%になっていたため、結果として田宮の名声を保つこととなりました。

 

1969年、東映プロデューサーに誘われ、千葉真一主演の『日本暗殺秘録』に出演、映画界にカムバックします。

1972年にはTBS系ドラマ『知らない同志』で本格的にテレビ進出を果たすと、

『白い影』『白い滑走路』といった白いシリーズや山田太一脚本の『高原へいらっしゃい』が立て続けにヒットし、テレビでもスターにのし上がります。

 

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参照元 

https://www.amazon.co.jp/dp/B00JDC0TIY

 

このころからビジネスに強い興味を持ったり、政財界とつながりを作ろうとしていたが

ゴルフ場やマンション経営などが失敗。

そう鬱病と診断されるも自身はなかなか認めませんでした。

 

1977年、映画では原作の途中までしか制作されなかった経緯もあって、

田宮は『白い巨塔』のドラマ化を持ち込みます。

結果、ドラマ化が決定し、ロケに入りますが、それと同時に田宮は多額の債務と鬱に悩みます。

 

田宮は財前に自分を重ねていた部分もあり、この収録が終わると田宮は次に何をしたらいいかがわからず相談していたそうです。

 

1978年、田宮はクレー射撃用散弾銃で自殺を遂げます。

43歳でした。

白い巨塔の放映をあと2話残すこととなり、皮肉にも田宮の自殺が注目を集め

最終回は31%を記録する高視聴率となりました。

 

むかちん