むかちん歴史日記279 音楽・映画・テレビ、メディアで活躍した偉人たちシリーズ④ 昭和を代表する作詞家、脚本家~阿久悠
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)
今日は音楽・映画・テレビ、メディアで活躍した偉人たちシリーズの第4弾!!
昭和を代表する作詞家、脚本家
阿久悠(1937-2007)
を紹介します✨
https://artist.cdjournal.com/a/aku-yu/142050
ペンネームは「悪友」から来ているそうです。
兵庫県警の巡査であった父親の関係で近場ではあったが、幼少期は転居を繰り返します。
明治大学文学部を卒業後、映画の脚本を書きたいと思い、当時、『月光仮面』を売り出していた広告代理店の宣弘社が企画部で脚本家を募集しているのを知り、応募、合格します。
しかし、そこでは、当初望んでいなかったCM用の絵コンテを書着続ける日々だったそうですが、それが作詞家として成功する土台にもなりました。
コピーライター、CM制作を手掛けながら、放送作家としても活動し、1966年に宣弘社を退職、放送作家、作詞家としての活動を本格化させます。
作詞は音楽番組の脚本を手掛ける傍らで学んだそうです。
歌詞の処女作は1965年、ザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」。
本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」で、これはオリコンチャート最高38位にランクインします。
この曲が阿久のA面曲での本格的なデビューでした。
その後、阿久悠は作詞家として世に5000曲以上送り出します。
さらには日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員として関わります。
阿久の作詞曲で最も売れたのは、ピンクレディーの『UFO』でした。
1971年「また逢う日まで」尾崎紀世彦
1976年「北の宿から」都はるみ
1977年「勝手にしやがれ」沢田研二
1978年「UFO」ピンク・レディー
1980年「雨の慕情」八代亜紀
ニューミュージックの隆盛などで阿久が苦戦を強いられると
阿久は小説執筆にシフトしていきます。
直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』などの小説を手掛けます。
1997年菊池寛賞を受賞、1999年には紫綬褒章を受章します。
阿久は2007年、尿管がんのため亡くなります。
70歳でした。
◆名言
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歌という限られた枠の中に、映画一本分くらいの内容を詰め込もうと思っていたし、常に世間を裏切ってやろうと考えて作詞してきましたね。
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青春時代が夢なんて あとからほのぼの想うもの。
青春時代の真ん中は 胸に棘刺さすことばかり。
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何もしなければ道に迷わないけど、何もしなければ石になってしまう。
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無駄と遠回りほど価値のあることはないのだ。
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人は、何に飢えているんだろう?
人は、何にあこがれているんだろう?
これを意識すれば、古びないものが出来る。
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夢は砕けて夢と知り
愛は破れて愛と知り
時は流れて時と知り
友は別れて友と知り
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幸福は只で貰うものではない。
欲しがってもいけない。
幸福は投資して得るもの。
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むかちん