むかちん歴史日記420 改革・革命で影響を与えた人々⑤ イラン革命の指導者でイランの最高指導者~ルーホッラー・ホメイニー
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は改革・革命で影響を与えた人々の第5弾!!!
イラン革命の指導者で、イランの最高指導者として大きな影響を与えた
ルーホッラー・ホメイニー(1902-1989)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%83%BC
◆ルーホッラー・ホメイニーは1902年、イラン中部の町で、シーア派第7代イマーム、ムーサーの子孫を称するサイイド(預言者ムハンマドの直系子孫)の家系に生まれます。
ホメイニーは生後5か月で、法学者であった父親が地元の人間に殺害されてしまったため、母親と叔母に育てられます。
イランのシーア派の聖地ゴムでイスラム法学を学び、シーア派の上級法学者を意味するアーヤトッラーの称号を得ます。
ホメイニーは第二次世界大戦中の1941年ごろから、モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝の独裁的な西欧化政策に対する不満を表明し、皇帝が宣言した「白色革命」の諸政策について、批判して、抵抗運動の呼びかけを見せたため、逮捕されます。
このときは釈放されたたものの、政権批判は継続し、翌年1964年にホメイニーの国民への影響力を恐れた皇帝から拉致され、国外追放されるのを受け、亡命します。
パフラヴィー皇帝の諸政策は西欧化を独裁的に進めるもので、庶民の貧富の差は拡大していく一方で、これに反発して国民から抵抗運動が巻き起こり、ホメイニーはその象徴的な人物となっていきます。
ホメイニーはトルコに滞在したあと、イラクへと移り、1978年にはフランスへ亡命します。
1979年、ホメイニーが亡命先のフランスから糸を引いて、反体制運動は高まり、これに耐えかねた皇帝は家族とともにエジプトへ亡命します。
これによってホメイニーは15年ぶりに帰国を果たし、ただちにイラン革命評議会を組織します。
そして「イスラム共和国」への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意によって、「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言します。
そしてホメイニー自身は「法学者の統治論」に基づいて、最高指導者(国家元首)となります。
この一連の動きをイラン革命と呼びます。
新政権はイラン・イラク戦争や外交危機など様々な問題と向き合いますが、
ホメイニーは諸政策に強い影響力をもって携わりました。
ホメイニーは革命後は一転して、社会主義者や世俗主義者を弾圧し、事実上の宗教独裁体制を敷きました。
ただ、イスラム法が現実に適合するように努力をしました。
1989年死去。86歳でした。