むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記421 お笑い・感動を与えたくれた心に残る漫画家たち① 昭和初期を代表する漫画家~田河水泡

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)


今日はお笑い・感動を与えたくれた心に残る漫画家たちシリーズの第一弾!!!


のらくろ』が子どもから大人まで人気を博した


田河水泡(1899-1989)


を紹介します(*^▽^*)


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参照元 
https://books.bunshun.jp/articles/-/1797


田河水泡は1899年に現在の東京都墨田区で誕生します。

田河の出生直後に母が他界し、父も再婚することになったため、子どものいなかった伯父夫婦に育てられました。

伯父が中国画などを愛好していたこともあり、田河も絵筆をとるようになりました。

再婚した父親も亡くなり、育ての親であった伯父も小学校の頃に他界すると、一転して生活に困窮するようになり、田河は尋常小学校を卒業後、働かざるを得なくなりました。


その後、徴兵され、満州や朝鮮で生活を送り、1922年に除隊して帰国。
帰国後は画家を目指して、日本美術専門学校に入学します。


田河は卒業後、展示装飾の手伝いや広告デザインの仕事でどうにか食いつなぎ、もう一つの夢であった文筆家への進出も試みます。


当初、田河は小説で売り込もうと考えましたが、ライバルが多すぎることや無名の新人を取らないであろうということから、落語や講談に目をつけ、書下ろし新作の落語の執筆にとりかかりました。


書いた新作落語が「面白倶楽部」に掲載されて以降、いろいろな出版社から声がかかるようになり、売れっ子落語作家となっていきます。


落語作家として売れっ子となる中、美術学校卒業という経歴が面白がられ、新作落語に挿絵を描いてほしいという依頼を受けるようになります。


落語作家の傍ら、1929年に初連載となる『人造人間』を書きあげます。
そして漫画家としてのペンネームとして「田河水泡」という名前を使うようになります。


1929年には初の子ども向け連載『目玉のチビちゃん』の連載を開始します。


同作連載終了後、『のらくろ』の執筆を開始し、設定を軍隊にすることにより、
自らの徴兵時代を反映させる事が可能になり、独特の世界観を作り上げ、
同作は爆発的な人気を獲得することになります。

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参照元 
https://www.pinterest.jp/pin/326370304229888100


そして、戦前としては異例の長期連載作品になります。

1941年に同作は打ち切られますが、その影響力は大きく、幼い手塚治虫のらくろを模写していたと言われています。


戦後は『のらくろ』の執筆を再開する一方で、落語の執筆も再開。

1969年には紫綬褒章を受章します。


長谷川町子は田河の内弟子となりますが、彼女がクリスチャンであったこともあって、彼女の付きそいで、自宅の隣にあった教会に通ったところ、妻が長谷川が実家に戻ったあとも教会に通い続け、
田河夫妻は教会の洗礼を受けることとなります。


1989年、肝臓がんのため、死去。90歳でした。


むかちん