むかちん歴史日記492 戦争に翻弄された人々② フィリピンから戦後29年で帰国した少尉~小野田寛郎
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は戦争で翻弄された人々シリーズの第2弾!!!
戦後29年、フィリピンで戦い続けた少尉
小野田寛郎(1922-2014)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 http://zero123456789.web.fc2.com/note/z-rekisi/z_onodahiroo.html
◆小野田寛郎は1922年、和歌山県に誕生し、旧制中学時代は剣道選手として活躍、卒業後は貿易会社に就職し、中華民国勤務となって漢語を習得します。
上海で働いていた1942年に満20歳で徴兵検査を受け、陸軍二等兵として入営。
1944年には久留米第一陸軍予備士官学校へ入校します。
卒業後は英語や漢語が堪能であったことから、陸軍中野学校二股分校へ入り、ここで遊撃戦の教育を受けて、隠密行動、夜襲などを学んで、のちにこれを実践することになりますが、通常の教育と違ったのは、一般的には「生きて虜囚の辱めを受けず」と戦時訓を教わりますが、この中野学校では最後の一人となっても戦え、玉砕せずに捕虜になっても生き残れというもので、反撃に備えて、諜報を行える教育がなされました。
同年12月にフィリピンへ派遣されます。
しかし、日本軍はアメリカ海軍艦艇の砲撃に撃破され、小野田はルパング島の山間部へと逃げ込みます。
1945年8月の日本の敗戦後も任務解除の命令がとどなかったため、引き続き小野田らは密林にこもって戦闘を継続します。
1945年9月に戦死広報が届けられましたが、1950年に小野田らとともに行動をともにしていたものの途中で逃亡した赤津一等兵が投降したことによって、3人の将校が生きていることが判明します。
彼らは日本軍が再びフィリピンに上陸し、戦闘を継続するという考えから、戦闘行為を続け、部落へ攻撃を加えることもありました。
小野田は日本の敗戦による投降を呼びかけられても信じることはなく、捜索隊もわざと雑誌や新聞などを残して現在の日本について伝えようとしましたが、アメリカの傀儡政権だとして、全く信じようとしませんでした。
しかし小野田もともにいた将校の戦死などもあって、孤独を深めており、1974年捜索隊に触発された鈴木紀夫が小野田との接触に成功、上官の任務解除命令があれば投降すると約束しました。
そこでかつての上官であった谷口義実元陸軍少佐から口達によって解除命令を出し、これによって小野田は帰国することになるのです。
しかし帰国した小野田ですが、終戦後も多数の軍人や住民が死傷した出来事が明るみになるにつれて、メディアからバッシングを受け、価値観が大きく変わった日本社会では馴染むことができませんでした。
帰国して半年後に次兄のいるブラジルへ移住することを決意し、小野田牧場を経営して10年で成功させます。
2014年小野田は肺炎で死去します。91歳でした。
ニューヨークタイムズなどは彼を
「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」
「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」
と評価しました。
むかちん