むかちん歴史日記493 戦争に翻弄された人々③ シベリア抑留を経験した歌芸人~三波春夫
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、戦争に翻弄された人々シリーズの第3弾!!!
シベリア抑留を経験した日本の超大物演歌歌手
三波春夫(1923-2001)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 http://www.teichiku.co.jp/teichiku/artist/minami/profile/
◆三波春夫は1923年に現在の新潟県長岡市の文具商の三男として誕生します。
1930年に母親と死別し、1932年に父親が再婚して継母がやってきますが、関係は良好で、継母は連れ子と分け隔てなく接してくれたそうです。
1936年、家業が傾いたため、13歳のときに家族で上京。
このころから浪曲師を目指そうと考えて、寿々木米若に入門願いを送ったが、丁寧に断り状が届けられます。三波は当時、非常に人気の高かった浪曲界の人からの手紙は断り状であったとしても非常にありがたく感じたそうです。
1938年、築地市場内の叔父の店に就職し、市場内で仕事が終わるとトロ箱を演台代わりにして浪曲を披露、大人気を博します。
1939年に叔父が死去し、店を畳むことをきっかけに、文京区にあった日本浪曲学校に入り、同年初舞台を飾り、少年浪曲師として活動します。
1944年、満20歳となり、徴兵によって帝国陸軍に入営し、満州へと渡ります。そこでも浪曲を披露し、「浪曲上等兵」と呼ばれました。
1945年、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連が満州国に侵攻、同地で敗戦を迎え、三波はソ連の捕虜となります。同年10月にハバロフスクの強制収容所へ送られ、22歳から26歳までの4年間シベリア抑留で過ごします。
このシベリアでの捕虜生活は非常に過酷なものでした。
シベリアは零下40度の極寒の地で、しかも戦勝国とはいえ、当時のソ連は非常に物資が不足していました。
そのため、当初は一日一回スープのみといった生活で、極寒の中、飢えで苦しい状況でした。
三波は抑留中も浪曲を披露して、仲間を喜ばせました。しかし、この浪曲もソ連の検閲が入るようになり、思想統制を余儀なくされます。
三波はのちに当時のソ連のシベリア抑留を「国際法を無視し、捕虜の人権を蹂躙した国家的犯罪。更にソ連は謝罪も賠償も全くしていない」と強く非難しています。
1949年に日本へ帰国し、浪曲師として復帰します。
1957年には「三波春夫」として歌謡界デビューを果たし、1958年には紅白歌合戦にも出場。
1967年には1970年から半年間開催が決まった大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」が8社競作で発表され、総売上げが300万枚を突破する中で、三波盤は130万枚と突出した売り上げを記録します。
「お客様は神様です」という言葉がありますが
これは三波が最初に発したことばです。
但し、昨今使われている使い方とは意味が違います。
シベリア抑留を経験し、このシベリアでも浪曲を披露して、
浪曲師として復帰した三波ですが 「藝能人とは、藝をもって大衆に喜びを贈り、奉仕しなければならない」という信念がこの経験によって培われました。
三波の「お客様は神様」全力で喜びを贈る対象としての「神様」だったのかなと思います。
今ではそれが独り歩きして客の側が「神様」だから何をしてもいいという「曲解」に繋がっている部分もありますが・・。
1999年には生涯最後の紅白出場を果たし、2001年に77歳で亡くなります。
むかちん