むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記458 20世紀の世界に影響を与えた指導者③ 太平洋戦争終結時の米国大統領~ハリー・S・トルーマン

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、20世紀の世界に影響を与えた指導者シリーズの第3弾!!!

 

太平洋戦争の終結時に米国大統領として指揮した

 

ハリー・S・トルーマン(1884-1972)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

 

ハリー・S・トルーマン1884年アメリカのミズーリ州で誕生します。

1901年、高校を卒業したのち、銀行の事務職につきますが、父親の手伝いのため、就農します。

大学以上の学歴を持たない最後の大統領と言われています。

 

第一次大戦に際しては、士官となって砲兵部隊を指揮していました。

 

1934年、トルーマン上院議員に当選します。

彼はルーズベルト大統領のニューディール政策を支持しました。

 

再選後の1941年にトルーマンは軍事資金の不正利用を監視するため、「トルーマン委員会」を設立します。

この委員会の調査報告によって150憶ドル近い予算が削られ、第二次世界大戦に突入しようかという状況のアメリカでトルーマンは一躍その知名度を上げていきます。

 

1944年、大統領選が近づいてくると、副大統領候補として、トルーマンの名前が浮上し、党大会で指名されるに至りました。

ルーズベルトは戦争指導者として高い評価を得て、先例のない4選を果たし、トルーマンも副大統領に正式に就任します。

 

しかし、心身に負担をかけ続けたルーズベルトが1945年4月に急死すると、トルーマンが大統領に昇格します。

 

終戦まではトルーマンは外交に集中せざるをえず、1945年7月のポツダム会談に参加、米英中の3国によるポツダム宣言トルーマンがまとめ上げました。

 

このころのアメリカは、日本を降伏させることと、勢力拡大を密かに画策するソ連への牽制と2つのかじ取りに迫られていました。

日本は敗戦が濃厚であったため、降伏をする準備を進めており、原爆投下は不要であったという論は今でも根強く、トルーマンによる原爆投下は強硬派がその威力を試験したかった側面とソ連を威嚇する側面、両面あったとされます。

 

最終的にトルーマンが広島・長崎両都市への投下を指示するわけですが、

これは当時の世論の支持はあったものの、多くの識者からは酷評されました。

 

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「いかなる詭弁を用いようと、原爆投下の主目的が、戦闘員ではなく女子供老人などの非戦闘員の殺傷であったことを否定することはできない。そもそもアメリカは日本を挑発しなければ決して真珠湾を攻撃されることはなかっただろう。」―ハーバート・フーバー 第31代アメリカ合衆国大統領

 

「原爆投下は、米国兵士の命を救うためには全く必要のないものだった。我々は日本に原爆を投下する必要はなかった。」―ドワイト・アイゼンハワー 米第34代大統領 連合国軍総司令官

 

「日本がソ連に和平仲介を頼んだと知った1945年6月、私は参謀達に、戦争は終わりだ、と告げた。ところがワシントンのトルーマン政権は突如日本に原爆を投下した。私は投下のニュースを聞いたとき激怒した。」―連合国軍総司令官 ダグラス・マッカーサー

 

日本上空の偵察で米軍は、日本に戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本は降伏する用意があることも知っていた。だがトルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。この野蛮な爆弾を日本に投下したことは、なんの意味を持たなかった。海上封鎖は十分な効果を挙げていた。この新兵器を爆弾、と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは”毒物”である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない!」―ウイリアム・ダニエル・リーヒ 米海軍提督・大統領主席補佐官

 

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B#%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%81%B4%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88

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終戦後、トルーマンはやはり外交政策に追われることとなり、

朝鮮戦争の行き詰まり、中国の共産化、ヴェトナムの独立運動など様々な面で彼の支持率は低下し、結局、大統領選への出馬を取りやめることになります。

 

1972年、トルーマンは88年の生涯を閉じます。

 

むかちん