むかちん歴史日記513 古代ヨーロッパ世界③ 古代ギリシア~アテネの民主政の成立
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日も引き続きギリシアのお話です(≧▽≦)
◆アテネの成立
前回都市国家(ポリス)の成立の話をしました。
その中でまず頭角を現したのがアテネとスパルタです。
そのうちのアテネはギリシア南部のアッティカ地方に形成されたポリスで、市民による耕筰と海外貿易で大きな富を持ち、領内にはラウレオン銀山があって、貨幣を保有し、他のポリスを圧倒する経済力を誇っていました。
◆平民の権利保護~ドラコンの成文法とソロンの改革
アテネはドーリア人の征服を受けずに以前から居住していたイオニア人によって形成されたポリスで、成立当初こそ王政でしたが、紀元前7世紀ごろまでには貴族政に移行し、そして平民が重装歩兵として軍事力の中核を担っていくようになりました。
そして貴族と平民が次第に争うようになり、紀元前7世紀初めにドラコンがそれまでの慣習法に対して、初めての成文法を作り、平民の権利を守りました。
そして紀元前594年、アテネの政治家、ソロンが改革に乗り出します。
これは少数の貴族支配に対して、参政権を持たない市民が不満を抱くようになり、
また貨幣が市民経済に浸透すると貧富の差が拡大し、自身の身を抵当に借財にして
奴隷に転落する平民もあらわれました。
そのため、ソロンが貴族と平民の対立の調停を行うというかたちで登場します。
彼の改革の骨子は以下が挙げられます。
・負債の帳消し:債務奴隷防止のために負債を帳消しにしました。
・債務奴隷の禁止:身体を抵当にした借財を禁止し、平民の奴隷への没落を防ぎました。
・財産ごとに権利・義務を定める:財産に応じて、市民を4等級に分けて、それぞれの権利と義務を決めました。これによって一定の財産の平民は、政治に参加できるようになります。これを財産政治と言います。
それまではオリーブやブドウの収穫量で決められていたようで、家柄がいい者にしか参政権は与えられていませんでした。
・民主裁判の設置:全市民が参加し、抽選で陪審員が決められ、役人を訴えることができました。
・400人評議会の設置:4部族からそれぞれ100人、合計400人の評議員から成る評議会を創設しました。
◆ペイシストラトスの僭主政治
こののちに現れたのがペイシストラトスです。
ぺイシストラトスはアクロポリスを占拠して強引に僭主となり、専制政治を行いました。いわゆる独裁なのですが、独裁というととてもイメージが悪いのですが、彼の場合は、従来の国制を変えることなく、貧困救済などを行ったり、宗教や文学を保護しました。
彼の政治はそれなりに民衆の支持を集めました。
しかし引き継いだ彼の息子がアテネの政治を混乱させてしまったために追放されてしまいます。
◆クレイステネスの改革
クレイステネスの改革はアテネの民主政を完成させたと言われます。
・血縁的な4部族制を改め、彼が設置したデモスと呼ばれる行政単位での10部族制とし、各部族から1名の将軍職(ストラテーゴス)を選出する
・五百人評議会の設置
・僭主の出現を防ぐため、陶片追放(オストラシズム)の制度を創設しました。
僭主となる恐れのある人物を、投票数6000に達すれば、10年間追放することができました。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B3%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:AGMA_Ostrakon_Cimon.jpg
ここにアテネの民主政は完成しました。
むかちん