むかちん歴史日記416 改革・革命で影響を与えた人々① ピューリタン革命の指導者~オリヴァ・クロムウェル
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は改革・革命で影響を与えた人々シリーズの第一弾!!!
イギリスのピューリタン革命の指導者として名を馳せた
オリヴァ・クロムウェル(1599-1658)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB
◆オリヴァ・クロムウェルはイングランド東部のピューリタン(カルヴァン派の新教徒)でありジェントリの階級の家庭に誕生します。
ケンブリッジ大学で学び、自身は生涯、ピューリタンを貫きとおします。
当時のイギリスは1603年にテューダー朝のエリザベス1世が亡くなると、
スコットランドから迎え入れられたステュアート朝のジェームス1世は、王権神授説を背景にして、王権の強化を図り、議会と対立を深めたほか、イギリス国教会の立場からピューリタンを弾圧し、三十年戦争でも大陸の新教徒を応援しなかったため、国民の不信を強めました。
次ぐ、チャールズ1世は財政難にあえぎ、議会の承認なしに課税しようとしたり、貴族に献金を強要しようとしたりして、対立を招く結果となります。
このチャールズ1世は、1628年にエドワード・コークを中心にして、「権利の請願」と呼ばれる、不当な課税、不当な人身拘束の禁止を国王に請願したものを提出しますが
これを一切無視し、議会を解散、議会無しの専制政治を行います。
これによって国教会の教義の強要によってピューリタンは弾圧され、また課税が拡大されたため、ピューリタンと議会の多数を占めるジェントリが反絶対王政で統一戦線を組みます。
1642年、議会内で国王大権に対してあくまでも抵抗しようという勢力と、妥協を図ろうという勢力で分裂しつつあるとみるや、チャールズ1世は自ら兵を率いて、議会の主要な指導者の引き渡しを要求、これを拒否すると、チャールズ1世はいよいよ戦闘態勢に入ります。
クロムウェルは議会派に所属して戦い、鉄器隊と呼ばれる、熱心なピューリタンを集めた騎兵隊を組織し、当初優勢であった国王軍をはねのけて、議会派を有利な状況へもっていきます。
1644年、クロムウェルはマーストン・ムーアの戦いで大きく貢献し、この力を背景にして、議会の中でも長老派と呼ばれる国教会の普及と国王との妥協を図る勢力を追い出して、ピューリタン信仰に厚く、教会は平教徒のものであると考える独立派が主力のニューモデルアーミーに改組することに成功します。
そして1645年、クロムウェル率いる議会派がネーズビーの戦いで決定的な勝利を収めます。
1649年、チャールズ1世は処刑され、共和政を宣言しますが、ここからクロムウェルの独裁政治が始まり、アイルランド、スコットランドを征服、議会も解散してしまいます。
1653年、クロムウェルは終身の護国卿につき、軍隊とピューリタンの独裁となりました。
1658年、クロムウェル死去。
この死去によって王政復古が叫ばれ、処刑されたチャールズ1世の息子、チャールズ2世が帰国して王政復古が実現します。
逆に王政復古後はクロムウェルの墓は暴かれ、革命首謀者は死刑となりました。
むかちん