むかちん歴史日記517 古代ヨーロッパ世界⑦ 古代ギリシア~マケドニアの征服とローマ
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今日で古代ギリシアも最終回です😄
マケドニアはギリシア諸都市があるバルカン半島の北方に位置します。
このマケドニアでは都市国家は成立せず、王政が取られていました。
マケドニア王フィリッポス2世の治世の時代、パンガイオン金鉱を手に入れて財政を豊かにして、国家を成長させ、重装歩兵を独自の長槍で武装させ、職業的戦士を育成します。
強国となったマケドニアのフィリッポス2世はペロポネソス戦争後のポリス民主政の衰退に乗じて、ギリシア本土に侵攻し、紀元前338年、アテネ・テーベの連合軍に対して、圧倒的な勝利を収め、ギリシア本土(ヘラス)の大半を屈服させました。
そしてスパルタを除く諸都市とコリントス同盟(ヘラス同盟)を結成し、その盟主となりました。
こうしてフィリッポス2世はギリシアを掌握していきましたが、形式的には諸都市の独立は保たれていました。
フィリッポス2世はペルシア遠征も計画していましたが、暗殺され、その息子、アレクサンドロス大王に引き継がれていきます。
※フィリッポス2世の顔を刻印した貨幣
参照元 http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/g2kfol/g2k03.html
◆ローマによる支配
紀元前2世紀までにイタリア半島を統一したローマが紀元前168年にマケドニア戦争でマケドニアを滅ぼし、ギリシア支配に乗り出しました。
抵抗するコリントなど諸都市も征服し、アテネを攻撃して制圧、ここにギリシアの政治的自治は終わりを迎えるのです。
むかちん
むかちん歴史日記516 古代ヨーロッパ世界⑥ 古代ギリシア~ギリシアの覇権争い・コリントス戦争
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今日も引き続きギリシアの話題です😄
◆ペロポネソス戦争が終結し、結局ペルシアの支援を受けたスパルタが勝利を収めました。この内紛でギリシアの実権をにぎったスパルタですが、その勢いに乗じて、今度はペルシアが支配する小アジアに手を伸ばそうとします。
これに危機感を抱いたペルシアは今度はアテネやテーベにたきつけて、スパルタと戦争をさせて、小アジアから撤退させようと試みます。
ここで勃発したのが紀元前395年のコリントス戦争です。
このコリントス戦争ではアテネなど反スパルタ連合がペルシアから支援を受けて戦います。
スパルタは陸での戦いでは優勢に進めますが、海ではペルシアの支援を受けた反スパルタ同盟に惨敗、アテネなどはスパルタに奪われていた諸都市を奪い返すことに成功します。
そして雌雄を決する一戦となったのがスパルタ対新興都市国家テーベのレウクトラの戦いです。
※テーベ(テーバイ)攻めの七将
ここで数で勝るスパルタに新興国家テーベが勝利を収めます。
ここに覇権がスパルタからテーベへと移っていきます。
しかし、復権してきた反スパルタ側が過度に力をつけるのを恐れたペルシアは、
スパルタに寝返り、平和的和睦を望んだスパルタに応じて、アンタルキダスの和約(大王の和約とも)で両者の戦争を終結させます。
これによって戦争は終結するものの、ギリシアの土地は幾多にもわたる戦乱によってボロボロに荒廃してしまいます。
ちなみに余談ですが、よく言われる「スパルタ教育」というのは軍事的教育や兵役がむちゃくちゃ厳しかったこのギリシアの「スパルタ」から来ています。
むかちん
むかちん歴史日記515 古代ヨーロッパ世界⑤ 古代ギリシア~ペロポネソス戦争
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今日も古代ギリシアの続編といきましょう!!!
◆ペロポネソス戦争に至るまで
その中で中心的役割を果たしたのがアテネです。
海軍力を強化したアテネは、ペルシア軍の再来に備えて、エーゲ海の諸ポリスとデロス同盟を結成します。
この時のアテネは紀元前443年に将軍職となったペリクレスの下で全盛期を迎えていました。
ペリクレスはこのデロス同盟において集めたお金で建設したのが、パルテノン神殿です。
参照元 https://tripnote.jp/greece/2-things-to-be-careful-when-visiting-athens-parthenon
ギリシアは各ポリスの内政にも干渉し、ギリシアの支配者のごとくふるまいました。
このギリシアの勢力の伸長にもっとも警戒感を抱いていたのがスパルタでした。
スパルタはペロポネソス同盟を作って、アテネのデロス同盟に対抗します。
そしてこの対立は深まっていき、ついに紀元前431年、ペロポネソス戦争に突入します。
参照元 https://sekainorekisi.com/glossary/%E3%83%87%E3%83%AD%E3%82%B9%E5%90%8C%E7%9B%9F/
◆スパルタとは
アテネと覇権を争ったスパルタについて少し解説をします。
アテネは別記事でも書いたとおり、民主政を発展させた都市国家であったのに対し、スパルタは貴族政をとり、少数の貴族が半自由民(ペリオイコイ)と奴隷(ヘイロータイ)を支配しているという体制でした。スパルタはアテネに比べてもかなり強い軍国主義だったといえます。
紀元前431年にスパルタ率いるペロポネソス同盟軍がアテネの本拠アッティカ地方に侵入したことから戦争が勃発。アテネは守勢に立たされたましたが、当初はペリクレスを中心に優位な戦いを進めていたようです。
しかし、ここで想定外の疫病がアテネに蔓延します。
この疫病でアテネの人口の3分の1は失われ、ペリクレスも亡くなってしまいます。
ペリクレス以後はデマゴーゴスという煽動政治家が現れ、アテネは混乱に陥ります。
アテネとスパルタの戦いは紀元前404年に講和、ペロポネソス同盟の勝利に終わります。ペロポネソス同盟はイオニア諸国へのペルシアの保護権を認める代わりに資金援助を受け、ペルシアと同盟関係を結びました。昨日の敵は今日の友、、、といったところでしょうか、、。
これによってペルシアのギリシアへの干渉が再び強まるのですが・・。
こうしてアテネは全面降伏して、覇権はスパルタへと移るのです。
むかちん
むかちん歴史日記514 古代ヨーロッパ世界④ 古代ギリシア~ペルシア戦争
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今日も引き続き、古代ギリシア編です!!(*^▽^*)
紀元前500年にアケメネス朝ペルシアが支配していたイオニア人植民市が反乱を起こします。当時、アケメネス朝ペルシアはダレイオス1世の治世の下、周辺地域を次々と征服し、その勢力圏を拡大していました。
その中で小アジアのイオニア人植民市はペルシアから重税をかけられ、苦しんでいました。このイオニア植民市の街がミレトスです。
参照元 http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a02_greece/greece2.html
このミレトスを中心としたイオニア人たちがアケメネス朝に対して反乱を起こしました。
結局、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世はこれを鎮圧しますが、ここに援軍を送っていたのがアテネでした。
この報復として、アケメネス朝が攻め込んだことによって、ペルシア戦争が始まります。
◆3回にわたるペルシア戦争の勃発
・第一回ペルシア戦争(BC492年)
ペルシアがギリシアに攻め入り、北側のトラキアを制圧し、さらに海を越えてギリシア本土へ攻め込もうとしたところで暴風雨に遭い、これに失敗します。
・第二回ペルシア戦争(BC490年)
再度攻撃を仕掛けてきたペルシアは、エーゲ海の島々を攻略して、アテネの近くの街、マラトンに上陸します。
アテネはスパルタに援軍を頼むものの神事ということで断られたため、プラタイアイという都市国家とともにペルシアと戦います。
これがいわゆるマラトンの戦いでアテネ・プラタイアイ連合軍が勝利します。
マラトンの勝利を伝えようと伝令が長距離を一人で走り切り、アテネにたどり着いてそこで息絶えたことから、「マラソン」の語源となりました。
・第三回ペルシア戦争(BC480-BC479)
ダレイオス1世に代わり、クセルクセス1世率いるペルシア軍がテルモピレーでスパルタ軍と激突、10万のペルシア軍に対して、300のスパルタ軍が突入していくという戦いで数の点で優位であったペルシア軍がこの戦争において初勝利を収めます。
このスパルタの敗戦により危機に陥ったアテネをはじめとするギリシアの諸都市。
ここで、英雄と呼ばれるアテネのテミストクレスという将軍が現れ、三段櫂船という特別な船を作ります。
参照元 http://shop.ayard.jp/shopdetail/046002000325/
当時の船のメインは風に帆を張って進むもの。
しかし戦争で風任せでは勝利は非効率なので、漕ぎ手を船につけたのがこの三段櫂船です。
この漕ぎ手は無産市民であり、貧民でしたが、この漕ぎ手としての活躍によって、無産市民の発言力が強まり、結果としてアテネの民主政が徹底されることになります。
ギリシアはペルシア海軍をサラミス湾におびき寄せ、大規模な海戦に臨みます。
これがサラミスの海戦です。
これにギリシアは大勝利を収め、続く陸上のプラタイアの戦い、海上のミカレ岬の戦いにも勝利して、ペルシアは後退することになり、イオニア地方の独立が承認され、ギリシアとペルシアはカリアスの和約を結んで戦争を終結するのです。
ちなみにペルシア戦争のテルモピレーの戦いに300人のスパルタ軍が突入していく姿を描いた映画が『300 スリーハンドレット』です。
参照元 https://www.amazon.co.jp/300%E3%80%88%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%80%89-DVD-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/B003OTDYPW
むかちん
むかちん歴史日記513 古代ヨーロッパ世界③ 古代ギリシア~アテネの民主政の成立
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今日も引き続きギリシアのお話です(≧▽≦)
◆アテネの成立
前回都市国家(ポリス)の成立の話をしました。
その中でまず頭角を現したのがアテネとスパルタです。
そのうちのアテネはギリシア南部のアッティカ地方に形成されたポリスで、市民による耕筰と海外貿易で大きな富を持ち、領内にはラウレオン銀山があって、貨幣を保有し、他のポリスを圧倒する経済力を誇っていました。
◆平民の権利保護~ドラコンの成文法とソロンの改革
アテネはドーリア人の征服を受けずに以前から居住していたイオニア人によって形成されたポリスで、成立当初こそ王政でしたが、紀元前7世紀ごろまでには貴族政に移行し、そして平民が重装歩兵として軍事力の中核を担っていくようになりました。
そして貴族と平民が次第に争うようになり、紀元前7世紀初めにドラコンがそれまでの慣習法に対して、初めての成文法を作り、平民の権利を守りました。
そして紀元前594年、アテネの政治家、ソロンが改革に乗り出します。
これは少数の貴族支配に対して、参政権を持たない市民が不満を抱くようになり、
また貨幣が市民経済に浸透すると貧富の差が拡大し、自身の身を抵当に借財にして
奴隷に転落する平民もあらわれました。
そのため、ソロンが貴族と平民の対立の調停を行うというかたちで登場します。
彼の改革の骨子は以下が挙げられます。
・負債の帳消し:債務奴隷防止のために負債を帳消しにしました。
・債務奴隷の禁止:身体を抵当にした借財を禁止し、平民の奴隷への没落を防ぎました。
・財産ごとに権利・義務を定める:財産に応じて、市民を4等級に分けて、それぞれの権利と義務を決めました。これによって一定の財産の平民は、政治に参加できるようになります。これを財産政治と言います。
それまではオリーブやブドウの収穫量で決められていたようで、家柄がいい者にしか参政権は与えられていませんでした。
・民主裁判の設置:全市民が参加し、抽選で陪審員が決められ、役人を訴えることができました。
・400人評議会の設置:4部族からそれぞれ100人、合計400人の評議員から成る評議会を創設しました。
◆ペイシストラトスの僭主政治
こののちに現れたのがペイシストラトスです。
ぺイシストラトスはアクロポリスを占拠して強引に僭主となり、専制政治を行いました。いわゆる独裁なのですが、独裁というととてもイメージが悪いのですが、彼の場合は、従来の国制を変えることなく、貧困救済などを行ったり、宗教や文学を保護しました。
彼の政治はそれなりに民衆の支持を集めました。
しかし引き継いだ彼の息子がアテネの政治を混乱させてしまったために追放されてしまいます。
◆クレイステネスの改革
クレイステネスの改革はアテネの民主政を完成させたと言われます。
・血縁的な4部族制を改め、彼が設置したデモスと呼ばれる行政単位での10部族制とし、各部族から1名の将軍職(ストラテーゴス)を選出する
・五百人評議会の設置
・僭主の出現を防ぐため、陶片追放(オストラシズム)の制度を創設しました。
僭主となる恐れのある人物を、投票数6000に達すれば、10年間追放することができました。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B3%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:AGMA_Ostrakon_Cimon.jpg
ここにアテネの民主政は完成しました。
むかちん
むかちん歴史日記512 古代ヨーロッパ世界② 古代ギリシア~都市国家の成立と覇権争い
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今日は、昨日に続き、古代ギリシアを語ります!!!
◆暗黒時代と都市国家の成立
エーゲ文明が紀元前1200年ごろに海の民の侵攻によって滅亡しますが、そこから紀元前8世紀ごろまではなにがあったかが解明されていません。この空白の時代を暗黒時代と呼びます。
この間にイオニア人のほかに北方からドーリア人が移住してきてギリシア民族が形成され、さらに鉄器文化へと移行して、集住を始め、都市国家が形成されていきました。
この都市国家のことをポリスと呼びます。
参照元 https://33635090.at.webry.info/upload/detail/022/913/74/N000/000/000/130460576617916229431.png.html
大国は現れず、都市国家が各地に成立、地中海各地に植民市を形成して、地中海交易も発展しました。それとともに中産階級が発達し、民主政治が実現されていきます。
有名な都市国家としては、アテネ、スパルタ、テーベが挙げられると思います。
ポリスの中心部にはアクロポリスと呼ばれる外敵を見張る丘が形成され、
その周辺部に集落をつくるようになります。この集住をシノイキスモスといいます。
参照元 https://www.klm.com/destinations/jp/ja/article/the-symbol-of-athens-the-acropolis
最終的にはギリシアはローマへ服属することになります。
次回はこの3つのポリスについて語ります!
See you again!!
ジョニー・ジョニー・デッパー
むかちん歴史日記511 古代ヨーロッパ世界① 古代ギリシア~エーゲ文明
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今日は古代ヨーロッパ世界、古代ギリシアを取り上げます(*^▽^*)
参照元 https://www.cool-susan.com/2015/12/04/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3/
◆古代ギリシア最古の文明:エーゲ文明
ドイツのシュリーマンによって遺跡を発掘され、その存在が明らかになりました。
エーゲ文明にはトロイア、ミケーネ、ミノアといった文明があります。
エーゲ文明の前半は、クレタ島を中心とした海洋文明・クレタ文明であり、この文明はギリシア人ではないアジア系の海洋民族がつくった、海洋国家でした。
港湾都市は繁栄したこの文明では、貿易を通じてエジプトや地中海東岸のフェニキアなどから芸術品が流入していました。
この文明はイギリスの考古学者、アーサー・エヴァンズが1900年に発掘しました。
この文明は木材の大量伐採による自然環境破壊によって、文明が衰退していったとされ、そこに紀元前1400年ごろ、アカイア人が侵入して滅亡に至りました。
同じくエーゲ文明を代表する文明として、ミケーネ文明が挙げられますが、
紀元前1450年ごろに興ったこの文明はクレタ文明と同じく、地中海交易によって発展した文明であり、クレタとも貿易で芸術品などをやり取りしていたようですが、
その関係でついにクレタ島に侵攻して征服したと考えられています。
ミケーネはトロイア戦争でトロイアを破壊しますが、紀元前1150年ごろに勃興する海の民によってミケーネ文明は崩壊したとされます。
そしてトロイア文明はシュリーマンに発掘されるまで、イリアスに登場する神話上のもので架空のものという見方が強かったのですが、遺跡発掘によりその存在が証明されました。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9
むかちん