むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記143 アジア偉人旅行記シリーズ③ 中国改革開放路線の中心人物~鄧小平

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日はアジア偉人旅行記シリーズ第三弾!

中国改革開放路線で市場経済化をすすめた

 

鄧小平(1904-1997)

 

を紹介します♪

 

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参照元 

https://www.y-history.net/appendix/wh1603-059.html

 

◆1904年に生まれ、1920年に16歳でフランス「勤工倹学」(働きながら学ぶこと)に参加して、中国共産党に入党しました。

 

毛沢東を支持して国共内戦を戦い、1949年の中華人民共和国の成立後は共産党の中枢で活躍します。

身長150cmという小柄ではありましたが、毛沢東に一目置かれる存在になります。

 

毛沢東は「大躍進」運動というソ連とは別の中国独自の社会主義国家・経済の樹立を目指しますが、失敗し、毛沢東はその責任を問われ、一時的に国家主席の座を追われます。

毛沢東は自分への批判が強まることを警戒して、社会主義、中国革命の徹底という「文化大革命」を巻き起こし、鄧小平は劉少奇とともに資本主義へと傾く走資派として失脚させられます。

 

その後、1973年に周恩来の後ろ盾で表舞台に復活するものの、

毛沢東の周辺で実権を握る四人組と対立していきました。

鄧小平は周恩来と結託して、四人組に対抗、「四つの現代化」などを掲げますが、

1976年に後ろ盾となった周恩来が死去すると、四人組反対運動が暴走し、第一次天安門事件が起こります。

 

毛沢東は、民衆の反政府運動が活発化することを恐れ、鄧小平を失脚させ、四人組を擁護します。

 

◆1976年に毛沢東が死去すると権力闘争は激しさを増し、四人組と反四人組の闘争が起こり、最終的には四人組は逮捕されます。

華国鋒政権が誕生すると、鄧小平待望論が起こり、鄧小平は華国鋒政権ナンバー3の地位に復活します。

そして経済発展を目指す、「改革開放路線」を打ち出します。

鄧小平はその後、次第に実権を握っていき、1978年には日中平和友好条約に副首相として批准、1979年にはカーター大統領と交渉して、米中国交正常化を実現します。

 

1980年にはついに華国鋒首相を辞任させ、鄧小平に権力を集中させました。

鄧小平は、社会主義市場経済というそれまでの常識では考えられない大胆な経済体制を作り出し、社会主義の象徴であった人民公社を解体します。

 

革命体制というイメージを払拭するため、国家主席というポストを廃止し、

総書記を導入して、集団指導体制というイメージを作りますが、だれが見ても鄧小平が最高権力者なのは明らかでした。

 

鄧小平は平和路線をとり、台湾に対しては武力統一ではなく、平和的統一を目指すこと、また1989年には対立していたソ連ゴルバチョフ書記長と会談し、中ソ関係の正常化を実現させます。

 

◆鄧小平の大きな特徴は経済の自由化を認めつつも政治の民主化に対しては弾圧を加え、これが第二次天安門事件へとつながってしまったことです。

この二面性はその後の江沢民胡錦涛にも引き継がれます。

 

◆名言

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改革・開放には大きな肝っ玉が必要だ。正しいと思ったら大胆に試してみよ。

 

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むかちん