むかちん歴史日記181 日本のノーベル賞受賞者シリーズ① 日本のノーベル賞第一号~湯川秀樹
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)
今日は日本のノーベル賞受賞者シリーズ!!ということで、
授賞第一号の
湯川秀樹さん(1907-1981)
を紹介します!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%A8%B9
◆湯川は1907年に東京で生まれるが、わずか1年程度で京都に引っ越しをしたため、
彼は幼少期のほとんどを京都で過ごすことになります。
非常に無口な少年だったそうで、父親も彼が何を考えているのかわからん、といって、大学進学もあきらめさせようか考えたくらいだったそうです。
1929年に京都帝国大学理学部物理学科卒業。
京都帝国大学の講師となりますが、彼は声が小さく、講義も非常に難解だったそうです。
1934年に中間子理論構想を、翌1935年に「素粒子の相互作用について」を発表し、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言します。
これをきっかけで渡米したことにより、アインシュタインと親交を持つようになり、
1943年には最年少で文化勲章を受章するに至ります。
1947年にセシル・パウエル等が実際にπ中間子を発見したことで1949年にノーベル物理学賞を受賞しました。
これはアジアでは3人目、日本人としては初めてのノーベル賞受賞者となりました。
このニュースは敗戦下、占領下で沈んでいた日本を沸き立たせます。
ラッセル=アインシュタイン宣言に共同宣言者として名を連ねています。
1956年湯川は正力松太郎の要請で原子力委員にもなりますが、
正力の5年目までには原子力発電所の建設、という主張に対し、
十分な基礎研究なしの拙速な原子力発電所建設に反対の意志を示し、
わずか1年強で原子力委員のポストを外れます。
1975年、湯川は前立腺がんを発症し、手術を受けます。
その後は非常に健康状態は悪化していましたが、核廃絶を訴え続けます。
しかし1981年京都の自宅で亡くなります。
75歳。
◆名言
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君たち全員に優の成績をあげるけれども、勉強は自分でしなさいよ
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一つも失敗したくないなら、人の真似をする他ない
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ただ流行を追っているというのは、つまらない生き方です
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独創的なものは、初めは少数派である。多数というものは独創ではない
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未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である
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真実は、いつも少数派
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アイデアの秘訣は、執念である
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取り返しのつかない大きな失敗をしたくないなら、早い段階での失敗を恐れてはならない
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むかちん