むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記187 挑戦し続ける日本の経営者シリーズ② 関東の鉄道の礎を築いた~五島慶太

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*'▽')

 

今日は、挑戦し続ける日本の経営者シリーズの第二弾!

東急の実質的創業者、

 

五島慶太(1882-1959)

 

を紹介します(#^^#)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E6%85%B6%E5%A4%AA

 

◆五島は1882年、農家の家庭に生まれ、父は製糸業に手を出して失敗していたため、

家計は苦しい状況でした。

五島は幼少期から向学心が強かったため、中学校卒業後、進学しようとしましたが、経済的理由により断念、村の小学校の代用教員をしていました。

 

しかし、向学心の強い五島は、のちに学費のいらない東京高等師範学校(現筑波大学)に合格し、進学します。

 

1907年、さらなる最高学府を目指して、東京帝国大学に入学。

同大学を卒業するころには29歳になっていたが、

 

当時、五島は外務大臣も務めていた加藤高明の息子の家庭教師をしていた関係で

加藤邸に居候させてもらっていたこともあって、加藤のあっせんで農商務省に入省します。

 

五島はのち、鉄道院で勤務することになりますが

官吏として働くことに嫌気がさしてきた最中、

 

武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東急東横線の母体)社長の郷誠之助が資金集めに難航し、

鉄道建設に専門の知識を持った常務を求めて鉄道院次官に掛け合ってきたことが

五島にとっては渡りに舟となり、五島は武蔵電気鉄道の常務となります。

 

そのころ、実業家の渋沢栄一らが住宅地開発に乗り出して

東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入、

 

その住民に交通の便を提供するため、目黒駅と蒲田駅から同経営地まで鉄道を敷設すべく、荏原電気鉄道(後の目黒蒲田電鉄)も設立したが、

素人ばかりであったため、うまくいかずに経営不振に陥っていました。

 

そこで、阪急の建設などで実績のある小林一三が事業を進めるようになりましたが

小林が多忙となると、鉄道院出身の五島が推薦されることとなり、

五島は荏原電気鉄道の専務も兼任することになります。

 

目蒲線の開通直前に関東大震災が発生、

都心から投げ出された人々が郊外に移り、目蒲線は一気に業績を上げます。

 

その資金で武蔵電鉄を買収、名前を東京横浜電鉄と変え、東横線を開通させます。

 

五島は阪急の小林の手法にならって、

デパート、娯楽施設を沿線に誘致する戦略をとり、

沿線の付加価値を高めていきました。

 

五島はさらにそれだけにとどまらず、大学の誘致に力を入れます。

当時浅草にあった東京工業大学を沿線の大岡山に移転させることに成功、

1929年には慶應義塾大学日吉台の土地をなんと無償提供して、日吉キャンパスを開校させ、さらに日本医科大学には武蔵小杉の土地を無償提供します。

 

東京都立大学東京府青山師範学校(後に東京学芸大学)も誘致し、

五島は鉄道沿線に学生の安定した乗客を確保することに成功したのです。

 

1933年には池上電気鉄道も買収、1934年には渋谷に東横百貨店を開業させます。

さらに渋谷の開発では競合であった玉川電気鉄道を買収、1939年には目黒蒲田電鉄(荏原電気鉄道から改称)が東京横浜電鉄を吸収し、逆に名称を東京横浜鉄道に改めます。

 

◆五島は三越の買収を狙い、東横と合併させようとしますが、

三井財閥三井銀行の東横への融資をストップしてこれを阻止、

三菱銀行も足並みをそろえたため、五島は三井・三菱と戦わなくてはいけない事態になります。

 

小林からも諭され、最終的に五島はこれを断念します。

 

五島は1934年、東京高速鉄道を発足、

1939年には東京地下鉄道の株を大量に買い、東京地下鉄の開通に尽力した社長早川徳次を辞任に追い込むと世間から激しい非難を浴びます。

 

しかし、1941年、佐藤栄作によって、無駄な競争の廃止を主張され、

帝都高速度交通営団営団地下鉄、現・東京地下鉄株式会社)に一本化されます。

五島は債券と化した株券の山を見て人知れず号泣したともいわれています。

 

1942年、五島は京浜電気鉄道小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄を発足させ、

さらに1944年には京王電気軌道を合併。

また、相模鉄道など東京西南部全域の私鉄網を傘下に収め、俗に言う「大東急」を作り上げました。

 

このころ、五島は乗っ取り王として「強盗慶太」と呼ばれていました。

 

◆1944年、東条英機内閣の運輸通信大臣に就任。

終戦後の1947年に東條内閣の閣僚だったということで

連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって公職追放者指定を受けました。

 

追放後もご意見番として事実上企業活動に参画しており、

大東急の分割にあたっても、積極的に東急の再建に取り組みます。

 

復帰後は東急の会長に再びつき、買収を進めるなど強盗慶太ぶりは健在で、

その後、箱根、伊豆への輸送や事業をめぐって、西武の堤康次郎らと激しく対立することになります。

 

1959年、五島は死去します。77歳。

 

◆名言

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事業場から墓地に直行したくないとは考えているが、事業こそ私の生命であるとも思っている。

 

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孤独な者は、最も強い。

 

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三昧ということが必要である。女でも、碁、将棋、スポーツなんでもよい。三昧になる、すなわち「空」になるということが必要である。

 

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昭和初頭の財界不況に遭遇し、私はしばしば自殺を考えるに至るほどの苦しさを経験した。ときには社員の給与にも困難し、十万円の借金をするのに保険会社に軒並み頭を下げて回り、皆断られて小雨の降る日比谷公園をションボリ歩いたこともあった。松の枝がみな首吊り用に見えて仕方がなかった。しかし、いまにして思えば、すべて信念と忍耐力の問題であった。

 

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ときにはやむを得ず、株買い占めという強硬手段をとらざるを得ないこともあったが、これは世間でいうように単に私の征服欲、事業欲のためのみでなく、東横電鉄(のちの東急電鉄)の社員を愛し、その老後の生活まで考え、あわせて会社の総経費を分割して、経費を下げるということからやったことである。
【100社を超える会社を買収し、強盗慶太とあだ名をつけられたことについて語った言葉】

 

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俺はその日のことはその日で忘れる主義だ。その日に決断のつかないことを、思い悩んで明日まで持ち越すようだと、明日の戦争は負けだ。一日の労苦を忘れるには、坊主とか芸者の浮世離れしたバカ話を聞き、ぐっすり寝て仕事を忘れるに限る。翌朝は頭が爽快で、また新しい構想が浮かぶのだ。

 

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人間は知と行だけではダメである。そこには必ず誰にも負けないという信念が必要だ。それには信仰で人間の意志というものを絶えず鍛錬していく必要がある。事業で成功するにしても、利殖するにしても、不可欠なものは信念である。【東京市長選に伴う疑獄事件で6か月間獄中生活を送った経験から得た哲学についての発言。大審院大日本帝国憲法時の最高裁)で無罪が確定した。】

 

 

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むかちん