むかちん歴史日記256 歴史に残る名優をめぐる旅行シリーズ① 黒澤映画の名優~三船敏郎
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は歴史に残る名優をめぐる旅行シリーズの第一弾!
黒澤明によってその才能を見出された名優
三船敏郎(1920-1999)
を紹介します✨
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%88%B9%E6%95%8F%E9%83%8E
祖父秋田で漢方医を営む家系ではあったが、父が祖父と不仲であったことから、父親は跡を継ぐことはできませんでした。なので、父親は満州で貿易商や写真屋を営んでいました。
1938念に学校を卒業、1940年に徴兵で兵役に就きます。
三船が写真業の手伝いをしていたことを見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員になります。
1945年、特攻隊基地で終戦を迎えます。
三船は先輩兵で東宝撮影部に所属していた大山年治を訪ねて、撮影助手の採用を願い出ますが、何かの手違いで、俳優の願書に交じり、三船は面接をうけることになります。
面接自体は落ちてしまうのですが、会場に居合わせた高峰秀子が三船の存在感に胸騒ぎを感じて、映画監督の黒澤明にそれを伝え、黒澤が三船に会うと、黒澤も同じものを感じたといいます。
結局、審査員の一人だった山本嘉次郎監督が最後は責任を取るというかたちで及第で三船を合格にします。
1947年、谷口千吉監督の『銀嶺の果て』という作品で役者デビューします。
このとき、脚本編集をしていた黒澤は三船の才能を確信したといいます。
三船をスターに押し上げたのは彼のデビュー三作目、黒澤明監督の『酔いどれ天使』でした。
ここから多くの作品に出演し、
1950年『羅生門』に主演。同作品は1951年にヴェネツィア映画祭で金獅子賞を獲得し、「世界のミフネ」をとどろかせます。
1965年、黒澤明監督『赤ひげ』を最後に三船は黒澤作品に出演しなくなります。
それまで『酔いどれ天使』から『赤ひげ』までの16年間で三船が登場しなかった映画は『生きる』のみで、それだけ黒澤が三船に信頼を置いていたことがうかがえます。
黒澤はかなり妥協を許さない監督として知られていますが、
三船には自由にやらせていて、それだけ三船を信用し、その才能を感じていたと言えるでしょう。
三船は羅生門や七人の侍などで黒澤とともに海外でも一躍有名人となり、相当数のオファーが来ますが、国内を優先して、ほとんどの依頼を断っていたといわれています。
その断ったなかにはあの『スターウォーズ』もあったといわれています。
1990年代に入ると、体調のすぐれないことも多く、
軽度の認知症も発症していたといわれます。
1997年、77歳で死去。
海外でもトップニュースになるほどでした。
むかちん