むかちん歴史日記277 音楽・映画・テレビ、メディアで活躍した偉人たちシリーズ② 日本で初めてフリーアナウンサーとなった~高橋圭三
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は音楽・映画・テレビ、メディアで活躍した偉人たちシリーズの第二弾!
日本で初めてフリーアナウンサーとなった
高橋圭三(1918-2002)
を紹介します(*^▽^*)
https://doqpops.at.webry.info/200609/article_4.html
◆高橋圭三は1918年に岩手県花巻市の呉服店の三男として誕生します。
作家の宮沢賢治とは遠縁の親戚にあたるそうです。
高等商業学校を卒業後に富士電機に就職しますが、アナウンサー募集の新聞広告が目に止まったのをきっかけに1942年、NHKに入局します。
1953年から『NHK紅白歌合戦』の白組司会を9年連続で担当し、
これは後輩である山川静夫アナウンサーと並ぶ最長記録になります。
高橋の話術が注目されたのが1955年に始まった『私の秘密』の総合司会です。
この『私の秘密』は、当時のアメリカの人気番組『My Secret(私の秘密)』の日本版として製作されたもので、
冒頭での挨拶「事実は小説より奇なりと申しまして世の中には変わっためずらしい経験をお持ちのかたがたくさんいらっしゃいます」のきまり文句で、一躍お茶の間の人気司会者となり、人気番組の先鞭をつけます。
高橋は1961年にNHKを退職、そこから1年間はNHKと専属契約を結びます。
そして1962年、NHKとの契約解除後、日本初のフリーアナウンサーとして民放に転じたアナウンサーの第一号となりました。
このときに高橋は
「管理職になってハンコなんか押せない。ハンコは誰でも押せるが、職人アナの代わりはいない。」
「司会業の確立が夢でした。日本では司会は場つなぎだが、アメリカでは大切な職業」
の思いから、テレビ界に「フリーアナウンサー」の概念を初導入しました。
高橋は自ら「圭三プロダクション」を立ち上げ、社長業を営みだから多数の民放番組で司会を務めます。
1966年からはTBS『輝く!日本レコード大賞』の司会に抜擢され、
長年定着し、「どうもどうも」という圭三節で多くの視聴者を魅了しました。
1977年から1期参議院議員を務め、その後は後進の育成、また郷土岩手県の発展にも尽力します。
そして2002年、腎不全のため死去します。
83歳でした。
むかちん