むかちん歴史日記300 ドラム・ギター・ボーカル・・・伝説的バンドマンを追う⑤ 伝説的ボーカル~フレディ・マーキュリー
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日はな、な、なんと!!!
第300回目の記事です(((o(*゚▽゚*)o)))(((o(*゚▽゚*)o)))
ということで
今日はドラム・ギター・ボーカル・・・伝説的バンドマンを追うシリーズの第3弾!!!!
昨年末に世界中で話題になったQueenのボーカル
フレディ・マーキュリー(1946-1991)
を紹介します(*^▽^*)
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29438
◆フレディ・マーキュリーは1946年に当時、イギリスの保護下にあったタンザニアで誕生します。
本名をファルーク・バルサラといい、両親はペルシャ系インド人のゾロアスター教徒でした。
フレディは幼少期のほとんどをインドで過ごし、7歳からピアノを習い始めます。
1954年、8歳のころから全寮制の英国式寄宿学校に入り、
このころから複数のロックバンドに参加して、ピアノとヴォーカルを担当します。
1963年、寄宿学校のあったボンベイ郊外から実家のあるザンジバル島へ戻りますが、その翌年にザンジバル革命がおこり、アラブ人とインド人の死傷者を多数出したことから、
安全のためにフレディと家族はザンジバルから離れます。
イングランドに移り住み、フレディはそこで工業学校に入ったのちアートカレッジに入り、芸術とグラフィックデザインの証書をもらいます。
この技術がのちにQueenの衣装などに生かされていきます。
卒業後、フレディはバンド活動をしながら、ガールフレンドのメアリー・オースティンと古着を販売したり、空港で働いたりなどしていました。
バンド活動のほうは上手くはいかず、作っては解散し、という状況でした。
1970年、フレディはブライアン・メイやロジャー・テイラーのバンド、スマイルに参加し、これが「Queen」という新たなバンド名に生まれ変わります。
「ボヘミアン・ラプソディ」「輝ける7つの海」「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「懐かしのラヴァー・ボーイ」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」「愛という名の欲望」「プレイ・ザ・ゲーム」という名曲は、フレディが作曲した楽曲です。
フレディの曲はジャンルも多岐にわたっていて、
ロカビリー、プログレッシブ・ロック、ヘヴィメタル、ゴスペル、ディスコなど、非常に広範囲なものでした。
またフレディのライブパフォーマンスは型破りなことで知られ、多くのファンを魅了し、音楽シーンを牽引してきました。
Queenのギタリスト、ブライアン・メイは、フレディについて
「スタジアムの最後列にいる最後の一人まで、彼と繋がっているように感じさせることができる」
と評しています。
また映画でもわかるように彼は私生活において、
当初はメアリー・オースティンと同棲をしますが、破局
その後も友人関係は継続します。
そして彼はゲイであり、
1984年から美容師のジム・ハットンと交際。
フレディが死に至るまで7年間、ハットンはフレディに付き合い、また彼が原因と思われるHIVに感染していましたが、
フレディ死ぬまでそれを口外することはありませんでした。
ハットンは2010年にHIVではなく肺がんで亡くなります。
フレディは対外的にはエイズであることを否定し続けました。実際、Queenのメンバーに知らされたのも死の直前でした。
1991年、フレディはイギリス、ケンジントンの自宅で逝去します。45歳でした。
彼の死後、追悼コンサートが開かれ、
さらに生前の遺言であった彼らの最大のヒット曲「ボヘミアン・ラプソディー」の印税からエイズ基金への寄付も行われました。
それを受けて再発売されたシングルCDはイギリス史上初の同一曲が2度にわたりランキング1位を獲得するという快挙を成し遂げました。
彼は死後、さらに評価を高め、ローリング・ストーン誌で
「史上最高のボーカリスト」2位にランキングされました。
◆名言
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僕は人生をめいっぱい生きる。僕にとっては毎日が謝肉祭
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僕は僕さ。わかるかい、僕でしかない。めちゃくちゃになる時もあれば
ちゃんとしている時もある。そして…僕は僕だ
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今日なんかクソくらえ。明日が勝負さ
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お金で幸せは買えないが、それを与えることは十分にできる!
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妥協は僕にとって、最も汚い言葉だ
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僕はスターにはならない、伝説になる!
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むかちん