むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記334 存在の意味を考え続けた哲学者たち④ 弁証法を基礎に存在論を研究した~ヘーゲル

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は存在の意味を考え続けた哲学者たちシリーズの第4弾!!!

 

弁証法を基礎に存在論を検証した

 

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB

 

 

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、

1770年、神聖ローマ帝国シュトゥットガルト中産階級の家庭に誕生します。

 

母親が進歩的な教育者であり、幼少期は学問の機会に恵まれていたため、5歳でラテン語学校に入り、哲学や文学などの書物を読み漁っていたそうです。

 

ヘーゲルは7歳から18歳までの教育家庭としてギムナジウムに進学します。

ヘーゲルは1783年に最愛の母を失い、1785年には恩師を失うが、

学ぶ意欲は衰えることはありませんでした。

 

ギムナジウムではギリシア・ローマの古典が授業の中心に据えられていましたが、

ヘーゲルが好んだのはギリシア悲劇でした。

ヘーゲルは生涯、悲劇を愛し続け翻訳などにも取り組みました。

 

1788年にはテュービンゲン大学に入ります。

このころは世界史的にも激動の時代で、

同年、カントの「純粋理性批判」が公刊され、カント哲学が完成を見せていく中で

ヘーゲルはカントに強い影響を受けます。

 

デュービンゲン大学は神学教育を受けますが、神学院は規律正しい一方で、修道生活は重いものでした。

 

こうした暮らしの中で交流をもちはじめたのが、詩人のヘルダーリンや哲学者のシェリングでした。

 

神学校の雰囲気に合わないという点で合致し、互いに刺激しあったそうです。

 

また1789にフランス革命が勃発すると、絶対主義の領邦国家であったヴェルテンベルグの地にもとどろき、ヘーゲルもまたその一人でした。

 

ヘーゲルフランス革命を支持する政治クラブの熱烈な弁士で、特にこのころはジャン・ジャック・ルソーに心酔していました。

 

大学を卒業すると、キリスト教への反感から牧師にはならず、哲学者の道を進みますが、いきなり哲学者になれるわけでもなく、家庭教師として生計を立てます。

 

このころ、フランス革命ロベスピエールによる恐怖政治へと変貌しており、

ヘーゲルは非常に失望し、これを非難しました。

 

ヘーゲルが哲学者として自立していくのは、1801年にシェリングがいたイェーナ大学に講師として入り、のち員外教授となって哲学史の講義の担当をするなど、

徐々に影響力をつけていくようになります。

 

しかし、1807年、ナポレオン軍のドイツ侵攻によって、イェーナ大学は閉鎖され、ヘーゲルは失職の憂き目に遭います。

 

新聞編集者で生計を立てることになりますが、

1808年、ニュルンベルクギムナジウムの校長の職を紹介され、

運営をしながら14歳から19歳の少年たちに難解な論理学を教えるために

多くの時間と労力を注ぎ込むようになります。

 

ヘーゲルはそうしたなかで、弁証法をもとに存在論を提唱し、

哲学者として大成していきます。

 

その後、念願の教授職にも就きますが、

1831年コレラによってこの世を去ります。61歳でした。

 

◆名言

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幸福で安全だった時代は歴史のうえでは白紙になる。

 

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この世で情熱なしに達成された偉大なことなどない。

 

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むかちん