むかちん歴史日記334 存在の意味を考え続けた哲学者たち④ 弁証法を基礎に存在論を研究した~ヘーゲル
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は存在の意味を考え続けた哲学者たちシリーズの第4弾!!!
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)
を紹介します(*^▽^*)
◆ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、
1770年、神聖ローマ帝国シュトゥットガルトの中産階級の家庭に誕生します。
母親が進歩的な教育者であり、幼少期は学問の機会に恵まれていたため、5歳でラテン語学校に入り、哲学や文学などの書物を読み漁っていたそうです。
ヘーゲルは7歳から18歳までの教育家庭としてギムナジウムに進学します。
ヘーゲルは1783年に最愛の母を失い、1785年には恩師を失うが、
学ぶ意欲は衰えることはありませんでした。
ギムナジウムではギリシア・ローマの古典が授業の中心に据えられていましたが、
ヘーゲルは生涯、悲劇を愛し続け翻訳などにも取り組みました。
1788年にはテュービンゲン大学に入ります。
このころは世界史的にも激動の時代で、
同年、カントの「純粋理性批判」が公刊され、カント哲学が完成を見せていく中で
ヘーゲルはカントに強い影響を受けます。
デュービンゲン大学は神学教育を受けますが、神学院は規律正しい一方で、修道生活は重いものでした。
こうした暮らしの中で交流をもちはじめたのが、詩人のヘルダーリンや哲学者のシェリングでした。
神学校の雰囲気に合わないという点で合致し、互いに刺激しあったそうです。
また1789にフランス革命が勃発すると、絶対主義の領邦国家であったヴェルテンベルグの地にもとどろき、ヘーゲルもまたその一人でした。
ヘーゲルはフランス革命を支持する政治クラブの熱烈な弁士で、特にこのころはジャン・ジャック・ルソーに心酔していました。
大学を卒業すると、キリスト教への反感から牧師にはならず、哲学者の道を進みますが、いきなり哲学者になれるわけでもなく、家庭教師として生計を立てます。
このころ、フランス革命はロベスピエールによる恐怖政治へと変貌しており、
ヘーゲルは非常に失望し、これを非難しました。
ヘーゲルが哲学者として自立していくのは、1801年にシェリングがいたイェーナ大学に講師として入り、のち員外教授となって哲学史の講義の担当をするなど、
徐々に影響力をつけていくようになります。
しかし、1807年、ナポレオン軍のドイツ侵攻によって、イェーナ大学は閉鎖され、ヘーゲルは失職の憂き目に遭います。
新聞編集者で生計を立てることになりますが、
1808年、ニュルンベルクのギムナジウムの校長の職を紹介され、
運営をしながら14歳から19歳の少年たちに難解な論理学を教えるために
多くの時間と労力を注ぎ込むようになります。
哲学者として大成していきます。
その後、念願の教授職にも就きますが、
◆名言
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幸福で安全だった時代は歴史のうえでは白紙になる。
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この世で情熱なしに達成された偉大なことなどない。
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むかちん