むかちん歴史日記343 お笑い・映画・ドラマで活躍した名優たち③ 落語に挑み続けた落語家、笑点の生みの親~立川談志
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日はお笑い・映画・ドラマで活躍した名優たちの第三弾!!!
落語に理論と感覚の両面から挑み続け、笑点を生んだ落語界の偉人
立川談志(1936-2011)
を紹介します(*^▽^*)
https://www.jiji.com/jc/d4?p=tds123&d=d4_psn
◆立川談志は1936年、東京に誕生します。
1962年には、入門が5年遅い古今亭朝太(後の3代目古今亭志ん朝)が、「36人抜き」で真打へ昇進、自分よりも3年遅い、5代目三遊亭圓楽にも先を越され、生涯最大の屈辱を味わいますが、1963年に立川談志を襲名して真打へと昇進します。
自身の1969年まで司会を務めますが、これは、談志が企画した番組でした。
談志は5代目圓楽に「寄席でやっている大喜利をテレビでやろう」と持ち掛けてきたのがきっかけで、
なぜ、落語ではなく、大喜利だったかというと、落語の場合、途中でコマーシャルを挟めないが、大喜利であれば、それが可能である、という観点からだったようです。
この背景にはテレビの普及した1960年代に、寄席はその影響で閑古鳥が鳴いている状態となり、強い危機感を抱いた談志は、これからはどんどんテレビにも出ていく必要があるとしてテレビ局への売り込みを図ったとされます。
しかし視聴率が伸び悩み、初代レギュラー陣との関係も悪化したことから、談志は降板することとなります。
1971年には参議院議員に初当選を果たし、1975年には三木内閣で沖縄開発庁の政務次官になりますが、問題発言などでわずか36日間で辞任。
参議院議員も一期のみで出馬をとりやめます。
1983年、真打昇進試験制度運用をめぐり、師匠の小さんと対立し、落語協会を脱退。
落語立川流を創設して、家元になります。
2008年に喉頭がんを患い、声も出せなくなったため、すべての予定をキャンセル、
2010年には声門がん再発を確認されるが、本人が声帯の摘出を拒否し、
2011年喉頭がんのため亡くなります。75歳でした。
◆名言
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師弟とは価値観の共有である
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己に自信の無い奴が常識に従う。不安を持つから動き出す。人生なんて食って、寝て、やって、終わり
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型ができてない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる。どうだ、わかるか? 難しすぎるか。結論を云えば型をつくるには稽古しかないんだ
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一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する
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(弟子全員に入門前に語っていた言葉)修業とは矛盾に耐えることだ
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馬鹿とは状況判断のできない奴のことをいう
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小言というのは、己の『不快感の瞬間的発散』であって、『教育』とは違う
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快適さを精神において追求するのが文化で、物質に頼って求めるのが文明である
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落語は人間の小ささを大切にする。始末の悪さ、愚かさをそのまま語る。こういう人間の業(ごう)を肯定してしまうところに、落語の物凄さがある
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天狗になるくらいでなきゃあ駄目じゃないかと思ったね。青臭いかもしれないけど、天狗になってるときの芸は威勢がいいんですよ
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イイ奴とは自分に都合のいい奴である
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よく「芸を盗む」とかいうが、あれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要だ。時間がかかるんだ。教える方に論理力がないから、そういういいかげんなことを言うんだ
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考え抜いてやることを悪知というんだ...そして感じたものをそのまま実行するのを英知という
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よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいといったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿という
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むかちん