むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記350 旅行でみかける歴史的建造物にまつわる人のヒストリー日本編⑤ 東京タワー設立に動いた男~前田久吉

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は旅行でみかける歴史的建造物にまつわる人のヒストリー日本編の第5弾!!

 

東京タワー構想を現実にした男、

 

前田久吉(1893-1986)

 

を紹介します。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E4%B9%85%E5%90%89

 

前田久吉は1893年に大阪で生まれます。

家庭の事情で小学校卒業後は進学を断念し、丁稚奉公に出ます。

 

1909年実家に戻り、呉服の行商を行います。

 

1913年、徴兵検査を受けますが、子どものころから病弱であったため、徴兵にはつかず、母方の祖父母の経営する新聞販売店の手伝いを始めて、1914年にその経営を任されます。

 

前田は地道に努力をして、数年で取り扱い部数を10倍にします。

 

そして1922年には「南大阪新聞」を創刊し、1927年には新聞社を株式会社に改組して社長に就任します。

 

1933年工業関係の専門紙「日本工業新聞」を創刊。

これにより、大阪朝日新聞(現在の朝日新聞)や大阪毎日新聞(現在の毎日新聞)の経営陣にも一目置かれる存在となり、社外役員に迎えられるなどの待遇を受けます。

 

1935年には「東京日日新聞(現在の毎日新聞)」の取締役、高石真五郎に東京で発行されていた『時事新報』の再建を要請され、専務として経営を掛け持ちすることになり、経営を好転させますが、株式総会により、解散が議決され、終刊に向けて奔走することになります。

 

戦時中は新聞の統廃合を余儀なくされた時代でもありました。

 

戦後、再び上京するものの、1946年から4年間は公職追放に遭い、

1950年の追放解除により、大阪新聞と産業経済新聞社の社長に復帰します。

 

1955年には産経新聞(55年は東京と大阪で分かれていたが、58年に統合)を戦時統合以来の経済紙から一般紙に転換し、朝日、毎日、読売に続く第4紙として育成しました。

 

1956年ごろ、すでに開局していたNHK日本テレビラジオ東京(現TBS)がそれぞれ自前の鉄塔をもって電波を出していましたが、

郵政省の電波監理局長の浜田成徳は「これでは東京を中心とした半径70km以内にしか電波が届かず、また都内に鉄塔が乱立することによって都市景観が悪化する」と考え、統合電波塔の構想を持ちます。

 

当時、参院議員となっていた前田は国会議員を通じて、浜田の構想を聞きつけ、財界の支援も得て、1957年に増上寺に付随する墓地だった一角を取得し、実質工期わずか1年で高さ332.6メートルの東京タワーを完成させます。

 

この東京タワーは在京各局の電波を集約していたので、非常に公共性が高く、そのため運営会社である日本電波塔株式会社は、産経新聞フジサンケイグループからも一切切り離した、前田の同族企業として、東京タワーを運営することとなりました。

 

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参照元 

http://showa.mainichi.jp/news/1958/12/post-70d2.html

※完成時の東京タワー

 

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参照元 

https://getnavi.jp/life/223115/

※建設途中の東京タワー

 

東京タワーは333mで完成時、パリのエッフェル塔をしのいで、世界一の建築物となりました。

 

現在では、地上デジタル放送に際してのより安定した電波供給という観点から主力の役割をスカイツリーに譲ることになりますが、

TOKYO FMについては、日本電波塔株式会社が大株主であるという事情から現在も東京タワーを主力としており、その他は予備送信所としての利用継続もしています。

 

1958年、産経新聞を売却し、前田は経営から手を引きます。

 

前田はその他、関西テレビラジオ大阪の設立にも尽力。

また千葉県にマザー牧場も設立します。

 

前田は1986年に亡くなります。93歳でした。

 

むかちん