むかちん歴史日記368 ちょっとお笑いになっちゃう歴史人物列伝③ イギリスの欠地王~ジョン
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日はちょっとお笑いになっちゃう歴史人物列伝の第3弾!!
イングランド史上最悪と言われる君主
ジョン(1167-1216)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
◆ジョンは1167年、プランタジネット朝のイングランドに、同朝初代王のヘンリ2世の末っ子として誕生します。
1169年、ヘンリ2世はフランス王ルイ7世との協約で、大陸の所領をまだ2歳にも満たないジョンを除いた3人の息子たちに分割しました。除外されたジョンはヘンリ2世から「領地のないやつ」と憐れに思われたそうです。
そこで領地がなかったことから「欠地王」というあだ名がつきました。
父ヘンリ2世から彼の三男でジョンの兄、リチャード1世の治世に
リチャード1世が第三回十字軍に出陣した際には、ジョンはフランスに留まるよう指示されていたにも関わらず、勝手にイングランドに戻って、リチャード1世の留守中の統治に関与しようとし、さらには王位も狙いますが、重臣や諸侯の十分な支持を得られずに断念します。
1199年に兄が亡くなると、国王に即位します。
1202年、ジョンの離婚問題でフランス王フィリップ2世に法廷に呼ばれますがこれを拒否。ジョン対フィリップ2世の対立に発展しますが、ジョンはフランスにおける人望は皆無に等しく、大陸の領土のほとんどを失います。
1205年にはカンタベリー大司教がなくなり、修道士たちが選んだ候補とジョンが推薦した候補が後継を競いましたが、教皇権の強化を図った教皇インノケンティウス3世は両者とも認めずに自分で決めてしまいました。
ジョンはこれを認めずに、インノケンティウス3世を支持した勢力の領地を没収すると
1207年、インノケンティウス3世はイングランドの聖務を停止し、ジョンを破門します。(当時のヨーロッパキリスト教世界ではキリスト教でなくなることは死を意味しました)
ジョンはこれを無視していたが、インノケンティウス3世はフランス王のイングランド侵攻を支持します。これに呼応して諸侯の反乱も計画されました。
これにビビったジョンはイングランドとアイルランドを教皇に派遣し、屈服します。
イングランド侵攻の教皇からのフランスへの支持は撤回されましたが、
ジョン率いるイングランドがフィリップ2世のフランスにブーヴィーヌの戦いで敗れると、イングランドの国内諸侯は非常に反発します。
諸侯らは結束してジョンに反発し、ロンドンを制圧されると諸侯からの要求事項を受け入れざるを得ないと決意。
これこそが1215年調印された大憲章マグナカルタで、国王の徴税権や法の支配などが明記されました。
これを飲んだのち、不服であると教皇に訴えると、国内の諸侯はまたしても反発。
フランスに援軍を求めて、ジョンとの間でまたしても内乱状態に陥ります。
しかし、この戦いの最中、ジョンは赤痢によってこの世を去ります。
48歳でした。
裏切りや惨敗、結局屈服などが多かったことから、イギリスでは首尾一貫して評判の悪い王となってしまいました・・・
See you again!!
むかちん