むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記435 父と呼ばれた日本の偉人⑤ テレビ放送の父にして読売巨人軍の生みの親~正力松太郎

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は、父と呼ばれた日本の偉人シリーズの第5弾!!

テレビ放送の父と言われ、読売中興の祖と言われる


正力松太郎(1885-1969)

を紹介します(≧▽≦)

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参照元 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E


正力松太郎は1885年に現在の富山県射水市に誕生します。

松太郎は当時、虚弱な子どもで、そういう子どもは寄宿舎から学校に通うのが通例でしたが、

松太郎は父親の「勉強より体を鍛えろ」という教えに従って、八キロ程度の道のりを地下足袋で歩きました。
このおかげか、正力は確かに健康になったそうです。
勉強の成績は芳しくなかったようですが、柔道では無段でありながら、とても強かったそうです。


正力は高校卒業後、東京帝大法科大学の独法科に進学します。

1913年、警視庁に入庁し、1914年には警視に任官されます。

1918年、正力は米騒動の鎮圧で手腕を発揮し、以後は普通選挙運動や労働運動など公安事件の取り締まりを行いました。

しかし1923年、第 48帝国通常議会の開院式へ向う摂政宮裕仁親王の車が虎ノ門外においてテロリストに狙撃されるという事件が起こり、

これを防げなかった責任として警視庁警務部長であった正力も懲戒免職となります。


1924年関東大震災後の経営難に陥っていた読売新聞の経営権を正力が買収します。

正力は社長として辣腕を振るい、全国展開を狙って地方紙なども買収しますが、新聞統制によってこれは頓挫していきます。


1934年、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘し、当時アマチュア野球しか存在しなかった日本側も全日本チームを編成、
これが現在の読売ジャイアンツの前身となる大日本東京野球倶楽部の礎となります。


1945年、戦犯に指定されて、巣鴨拘置所に収容され、社長を辞任。
1947年に釈放されると、社長に復帰します。


戦後、正力は新聞においては、1952年に大阪読売新聞を設立し、念願の西日本進出を果たし、1964年には九州にも設立。

1ブロック紙でしかなかった読売新聞を全国紙にまで発展させました。


一方、1952年、かねてより電波監理委員会へ免許出願していた日本テレビ放送網に、
日本のテレビジョン放送局としては初となる予備免許が交付されます。

当初はメディアの寡占になるという郵政省からのお達しにより、関東ローカル局として発足し、

1953年、NHKから半年遅れて、日本初の民間放送局として、日テレはテレビ放送を開始します。

当時、テレビ本体は庶民にとっては高嶺の花だったので、正力はテレビの普及に尽力し、各企業からのスポンサー獲得のために各地に街頭テレビを設置します。


その結果、力道山のプロレスなどスポーツ中継は人気が殺到、開局半年で日テレは黒字化を達成します。


1969年、84歳にて死去。
奇しくも、ジャイアンツが5連覇を果たした日に他界しました。


むかちん