むかちん歴史日記437 日本を支えた経営者・実業家たち② 安田財閥の祖~安田善次郎
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は日本を支えた経営者・実業家たちシリーズ第二弾!!!
安田財閥の生みの親
安田善次郎(1838-1921)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/%E5%AE%89%E7%94%B0%E5%96%84%E6%AC%A1%E9%83%8E/picture/
◆安田善次郎は1838年、富山県の半農半士の家庭に誕生します。
1858年に江戸へ奉公へ出て、最初は玩具屋に、そののち鰹節屋兼両替屋に勤めて、ノウハウを学び、25歳で独立して、乾物と両替を扱う安田商店を開業します。
幕府依頼の古金銀を集めて、利を得て、1868年の明治維新後も太政官札を集めて、巨万の富を得ました。
1874年以後、司法省などの官庁から公金取り扱いの御用を引き受けるようになり、金融業者として急成長、1876年には第三国立銀行開業の認可を受け、1880年には安田商店を安田銀行として発足、1897年には銀行5行,保険会社3社,ほかに事業会社4社を手中に収めるにまで至りました。
現在の明治安田生命保険や安田火災、東京建物などは安田善次郎が前身企業を創設したものです。
彼は41歳にして銀行を設立し、「銀行王」と呼ばれました。
安田は非常に情に厚い人物でしたが、情実で金を貸すようなことはどんなに親しい友人であっても行いませんでした。仕事には非常にシビアだったのです。それが成功の結果の原因ともいえるでしょう。
安田は金融を自分の天職だと感じていました。
私的に事業を営むことは自ら戒めていましたが、同郷で浅野財閥の祖、浅野総一郎の事業を支援するなど事業の育成を惜しむことはしませんでした。
現在、JR鶴見線の「安善駅」という駅は浅野が命名した駅ですが「安田善次郎」の名前から命名された駅です。
しかし1921年、当時拡大する貧富の差に不満を抱く青年によって、安田は暗殺されます。享年82歳。
安田は当時世間的には「ケチ」という悪評がたっており、世間は安田に同情を寄せませんでした。
しかし、安田は決して「ケチ」などではなく、彼の死後に判明したことですが、
東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地などを寄贈、
しかも安田は「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付していたため、世間には知られなかったのです。
彼の死をしのび、東京大学は「安田講堂」と呼ぶようになりました。
◆名言
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苦しい仕事のうちにも愉快があることを発見するまでには、幾多の修養を積まねばならない。
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日常の細事を大切に処理しないで、どうして物事が成功するだろうか。
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私の七十余年間の実験によると、この世にはやはり運というものは確かにあると信じている。しかしその運は先方から自分の方へ来てくれるものか、または自分からその運を取りに行くものか、このふたつのことの判断の仕方によって、人生の成功と失敗がおのずからわかれるのである。
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意志の弱い人は、取り引きの間、始終人の後に立って、いわゆる「ひけ(おくれ)」を取るものである。このような人は情実にこだわって、常に損害を招く。
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意思の弱き人は、何事にも気の移りやすく、衣服調度のごとき、時々の流行を追い、外見を飾るをもって能事とす。しかる虚栄の奴隷となる人は、予算外の出費もかさみ、ついには先祖伝来の家産をも減ずるに至る。いわんや貯蓄をや。
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自分の利益を外にして散財してまでも今日まで参りましたが、一つとしてお前の為に助かったと言って大層喜ばれたものはない、比較的恨みを受けるような場合になっている。しかしその恨みは私においてやましい所がないから一向に痛ようを感じませぬ。
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これはよいと思った事は決してそのままにせず、必ず実行してみる。また、自分の慣習上、悪いと心づいた事は必ず禁断する。おそらくは人間の貧富貴賎の岐れ目はここであると思う。
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金を増やすだけで減らさぬのを世間ではやっかむのかもしれぬが、実は自分は少しでも増やし、少しでも多くし、それをできるだけ効果的に使おうと苦心しているのであって、いまにして金儲けがやめられぬのも、その志が大きいからである。
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むかちん