むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記439 日本を支えた経営者・実業家たち④ 日産コンツェルン創業者~鮎川義介

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は日本を支えた経営者・実業家たちシリーズの第4弾!!!

 

日産コンツェルンの創業者

 

鮎川義介(1880-1967)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

Aikawa Yosuke.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%8E%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E4%BB%8B

 

鮎川義介1880年、現在の山口県山口市に誕生します。

鮎川の家庭は明治維新以前は中級以上の士族でしたが、明治維新後は没落し、困窮していました。しかし、彼の母方の大叔父には明治の元勲、井上馨がおりました。

 

義介が12,3歳のときに家族とともにキリスト教の洗礼を受け、そのときであったフランス人宣教師から英語や漢籍を学びます。

 

義介は大叔父から当時ではまだマイナーであった「エンジニア」になれと言い渡され、義介もそれを志すようになります。

 

東京帝国大学工学部を卒業した義介は、井上馨が強く勧める三井財閥を蹴って、「一職工」として、芝浦製作所(現・東芝)に入社します。彼は当時、経済の主流であった財閥には全く興味が持てず、ついていきたいと思える人物もいませんでしたし、当時の「立身出世」の風潮に疑問を感じていました。

 

彼は仕上げ工から始め、機械、鍛造、板金、組み立て、鋳物を、まさに身をもって学びました。

また、彼は「日本で成功している企業は西洋の模倣である」と考え、アメリ渡航を決意します。

留学などという華やかなものではなく、米の田舎町の鋳物工場で週給5ドルの「見習工」として雇われたことでした。そこで必死に鋳物技術を身に着けました。

 

帰国した義介は井上馨に鋳物工業の将来性を強く訴え、1910年、鮎川が30歳のときに戸畑鋳物(のちの日立金属)を設立します。

 

アメリカで様々な知識を得てきた義介は自動車産業に先見性を見出し、1933年には「ダットサン」製造のための「ダット自動車製造」を設立し、翌年「日産自動車」に改称します。

 

鮎川は人事においても妙手でした。

従来型のいわゆる「富士山型」の人事では、優秀な人材が集まってくるとどうしてもポストがつかえてしまうという問題がありました。

 

そこで彼はグループ企業を編成して、人間関係をうまく回した「適材適所主義」を編み出しました。いわゆる「アルプス連峰型」です。

日産コンツェルンは戦後十大財閥に数えられるほどに成長を遂げますが、日産の場合は、適材適所でも個性の発揮が発展に大きく寄与したと言えるでしょう。

日産自動車日立製作所など現在にも残る大企業を創出しました。

 

鮎川は終戦後、戦犯容疑を受け、巣鴨拘置所に20か月拘束されます。

彼は獄中で日本の復興策を練ります。

 

1967年、急逝肺炎のため死去。86歳でした。

 

◆名言

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俺は絶対に金持ちになるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよく行いえないで、しかも社会公益に役立つ方向を切り開いていこう。

 

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人間は反発心が大切である。神様はよくしたもので、貧乏人がいつまでも貧乏でないのはこの反発心があるからだ。また金持ちがいつまでも金持ちであり得ないのはなに不自由のない生活が反発心を失わすのである。その点で、世の親というものは、子供の教育を考えなければならない。

 

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むかちん