むかちん歴史日記475 逆境こそチャンス!反骨を乗り越えてきた偉人・経営者・政治家⑤ フィリピン戦線を生き延び、流通に革命を起こしたダイエー創業者~中内功
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、逆境こそチャンス!反骨を乗り越えてきた偉人・経営者・政治家シリーズの第5弾!!
フィリピン戦線から生還し、ダイエーを創業して、流通に大きな影響を与えた
中内功(1922-2005)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://kakunist.jimdo.com/2016/05/12/%E4%B8%AD%E5%86%85%E5%8A%9F%E3%81%A8%E8%90%BD%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%BC/
◆中内功は1922年、大阪の小さな薬屋を営む家庭に誕生します。
勉強はできる方ではなく、推薦状をもらいながらも大学受験に失敗。
1942年、日本綿花(のちのニチメン、双日)に就職するも1943年に召集され、満州国とソ連の国境に駐屯、1944年にはフィリピンの部隊に入ります。
フィリピンへ移った中内を待ち受けていたのは、連合国軍の猛攻撃と食料不足でした。
1945年、艦砲攻撃と連合国軍の上陸によって、敗走し、本来は敵に向かって突進して玉砕していくところを山下奉文軍司令官がゲリラ戦へと方針転換したため、命拾いします。
飢えは極限状態を迎え、ノミ、ハエ、カ以外はミミズでも油虫でもなんでも食べたという地獄のような状態で、同年6月、敵が至近距離から投げた手榴弾に被弾、生死を境をさまよいますが、衛生兵の止血によって一命をとりとめます。
「イリサン(フィリピン)でアメリカ軍の投げた手榴弾が破裂した瞬間 最後の時に、 電球の赤い光があって、そこにすき焼き鍋があって、家族六人ですき焼きを囲んでいる。 そこでハッとしてもういっぺんすき焼きを食わないといかんな。 このすき焼きを食べたいという一心で生きて帰ってきた。 今 ス-パ-マ-ケットをやっているのも食い物恨みでやっている。 好きなものを腹一杯食べられることが幸せだ。 これからは 餓えのない豊かな社会を作らなければならない」
(2009年9月19日発行「中内 功」より)
この体験がその後の中内に多大なる影響を及ぼしました。
1945年8月の投降後、11月に神戸の生家に奇跡的に生還します。
「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」という中内の言葉はこのときの経験から来ています。
1957年10月、末弟とともに「大栄薬品工業株式会社」を設立し、製薬事業に参入します。これはすぐに撤退しますが、九州のスーパー「丸和フードセンター」社長吉田日出男の要請を受けて、小倉に向かい開店の援助をしたことから、
吉田の提唱する「主婦の店」の名称を加盟費抜きで貰い受け、大阪市に医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」を開店、これがのちのダイエーとなっていきます。
中内は既成概念を次々と打ち破り、定価を維持しようとするメーカーからの圧力に屈せず、価格破壊を起こし、流通業界に革命を起こします。
1962年、大手商社日商(現在の日商岩井)の協力の下、渡米し、現地の流通業を研究します。
その好奇心のかたまりぶりと寝る間を惜しんでの研究の姿に同行していた日商の入江義雄(のちのダイエー副社長)は感服し、のちにダイエーへと入社します。
中内は「価格の決定権を製造メーカーから消費者に取り返す」を信条として、いくらで売ってもメーカーに介入させませんでした。
それでも協力を得られないメーカーに対しては、ダイエーがプライベートブランドを立ち上げて、商品開発を推進していきますが、これが既存のメーカーとの対立を巻き起こします。
有名なものが「ダイエー・松下戦争」で1964年、ダイエーが松下電器の製品を希望小売価格からの値下げ許容範囲だった15%を上回る20%の値引きで販売を行ったことがきっかけとなり、
松下電器が仕入れ先の締め付けをおこなってダイエーに対抗しました。
松下幸之助は「儲けるには高く売ることだ」という考えでしたが、ダイエーは松下を独禁法違反で裁判所に告訴します。
1975年、松下が中内を京都に招いて、説得しますが、中内はこれに応じず、和解したのは松下幸之助没後の1994年のことでした。これは「30年戦争」と呼ばれます。
1972年、三越を抜いて、小売店売上高トップに、1980年には売上高一兆円を達成。
1988年にはパシフィック・リーグの南海ホークスの株式を南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入、福岡ダイエーホークスを誕生させ、福岡ドームの建設に着手します。
1991年には経団連副会長となります。
1990年代後半にはバブル崩壊によって、地価が下落、また店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷していきます。
消費者の意識が「安く」から「品質」へと変化し、イオンやイトーヨーカ堂の台頭によって、ダイエーは凋落していきます。
2001年ダイエーを退任。2004年には私財からダイエー関連資産を一掃し、名実ともにダイエーと決別します。
2005年脳梗塞で倒れ、そのまま亡くなります。83歳でした。
むかちん