むかちん歴史日記479 、ルーヴル美術館所蔵の皇帝・国王④ 失政によって革命が起きた~チャールズ1世
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)
今日は、ルーヴル美術館所蔵の皇帝・国王シリーズの第4弾!!!
失政によって、革命が巻き起こったイギリス国王
チャールズ1世(1600-1649)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 http://tabisuru-c.com/travel/france200508/20050817-20.htm
◆チャールズ1世はスコットランド王ジェームズ6世(のちのイングランド王ジェームズ1世)の次男として、スコットランドに誕生します。
兄が早世してしまうので、チャールズ1世が王太子となります。
王太子の頃から政治にかかわりを始め、1621年にはヨーク公としてイングランド議会の貴族院の議員となります。
1625年、父の死去に伴い、イングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ1世に即位します。
チャールズ1世はバッキンガム公の補佐により、フランス王アンリ4世の娘でルイ13世の妹にあたるヘンリエッタ・マリアと結婚しましたが、プロテスタントのイギリスで、カトリックの王妃を迎え入れたことが反カトリック派の反感を買うことになります。
チャールズ1世が父と同様、王権神授説を信奉し、絶対王政を強いたことや、補佐のバッキンガムの権力欲と無能ぶりに辟易とした議会が対立を深めていったため、議会を解散したものの、スペインへの遠征は失敗し、バッキンガム公への批判はさらに強まりました。
1628年、反バッキンガム公および、反専制で固まった議会から「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められ、チャールズ1世はこれに署名するも、相変わらず続くバッキンガム公批判に対してはかばい続けます。
しかし、バッキンガム公は同年に暗殺され、チャールズ1世は側近を失うことになります。
その後、外交ではスペイン・フランスと和睦しますが、内政では、財政再建のために国王大権を濫用し、国民から強引に徴税し、アイルランド、スコットランドにまで国教会を押し付けてピューリタン(プロテスタント・カルヴァン派)を阻害したことから、反乱・暴動が起こるようになります。
スコットランドで起きた長老派の反乱を鎮圧するために、課税を行う目的で議会が招集されますが、これに激しく批判が巻き起こり、議会は解散されます。
スコットランド軍が侵入してきたことから再度議会が招集されますが、クロムウェルらが提出した国王に対する大抗議書が僅差で可決されます。
もはや王党派と議会派の衝突は避けられない状態にまで来ており、
1642年、ついにピューリタン革命が勃発、クロムウェルの指揮する議会軍は鉄器隊を率いて、王党派と闘い、議会派の勝利、チャールズ1世はとらえられます。
捕らえられたチャールズ1世ですが、巧みに姿を消して、再起を図るためにスコットランドと軍事上の密約を交わして再び内乱をおこしますが、敗れ去り、再び捕らえられてしまいます。
その後もチャールズ1世は議会派の内部対立を招く謀略を重ねたため、当初立憲君主主義者であったクロムウェルもチャールズ1世に対しては断固たる姿勢で臨むことが必要と考え、1649年、チャールズ1世は処刑されます。
彼の最期の言葉は以下のようなものでした。
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「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」(原文"I go from a corruptible to an incorruptible Crown, where no disturbance can be, no disturbance in the World.")
出展:https://www.y-history.net/appendix/wh1001-027.html
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むかちん