むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記482 日本の名映画監督、脚本家② 独特の映像世界で優れた作品を世に送り出した~小津安二郎

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、日本の名映画監督、脚本家シリーズの第二弾!!!

 

独特の映像世界で多くの作品を世に送り出した映画界の巨匠

 

小津安二郎(1903-1963)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E

 

小津安二郎1903年に現在の東京都江東区深川の海産物問屋を営む家庭に誕生します。

 

1921年、商業の道へ進んでほしいという親の意向から神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を受験したが落第、翌1922年三重師範学校(現在の三重大学教育学部)を受験したが、これも落第します。

小津が多くの映画に触れたのもこの時期と言われています。

 

その後、1年間だけでありましたが、教師として赴任します。

 

小津は映画への愛着が捨てられずに映画の仕事をするために、教師を辞め、1923年、松竹蒲田撮影所に入社します。

1924年から1925年の1年は当時の徴兵制度に従って志願兵として入隊、除隊後に職場復帰し、映画製作のノウハウを体得していきます。

 

1927年には念願の監督へと昇進。時代劇作品なども作りましたが、同年に時代劇部が京都へ移転し、蒲田は現代劇に特化したため、小津もその方針に従い、現代劇の作品を制作していきます。

1930年には1年に7本の映画を作るハイペースで、これが小津史上最も多くの作品を作った1年になりました。

 

1937年、小津は召兵され、中国戦線へ出向きます。1939年帰還命令を受けて神戸へ戻り、その後除隊。

 

1939年、内務省の指示で映画法が成立し、映画が事前に検閲されることとなったため、映画が完全に国家に統制されることとなります。

小津の作品が検閲で通らなかったこともあり、これは映画界に大きな衝撃を与えました。

小津がめげずに製作した1941年の『戸田家の兄妹』が小津の初めてのヒット作になります。

 

日米開戦後の1943年、小津は軍報道部映画班に徴集され、福岡から軍用機でシンガポールへ向かいます。

小津はシンガポール終戦を迎え、1946年に広島港へ到着、帰国します。

 

1949年、小津と長年共に映画を作っていくことになる、原節子を初めて迎えた『晩春』を発表、この作品は独自の撮影スタイルの徹底や伝統的な日本の美の追求などの観点から、その後の小津作品の礎の作品となりました。

 

Late Spring Japanese Poster.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%A9%E6%98%A5_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 

その後は1年に1作のペースで徹底的に作りこまれた映画を制作していきます。

1951年『麦秋』が芸術祭文部大臣賞を受賞、名監督としての地位を決定的にします。

 

1953年には原節子笠智衆をメインに据えた『東京物語』を発表、これが小津の代表作となります。

 

Tokyo monogatari poster 2.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%89%A9%E8%AA%9E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tokyo_monogatari_poster_2.jpg

 

1958年に製作した『彼岸花』で3度目の芸術祭文部大臣賞受賞、同年、それまでの功績が讃えられ、紫綬褒章を受章。

 

1962年の『秋刀魚の味』が小津の最後の作品となり、1963年、小津は60歳で死去します。

小津作品で中心を担った原節子は2015年に亡くなるまで、公に姿を見せることはなくなりました。

 

むかちん