むかちん歴史日記498 歴史を変えた世界の恐るべき最高指導者③ 社会主義国家・中華人民共和国建国~毛沢東
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)
今日は歴史を変えた世界の恐るべき最高指導者シリーズの第3弾!!!
毛沢東(1893-1976)
を紹介します!(^^)!
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
◆毛沢東は1893年、中国湖南省で五人兄弟の三男として誕生します。
1907年に14歳で最初の結婚をしますが、1910年、妻を赤痢で亡くします。
従兄から贈られた中国の近代化を説く本に触発された毛沢東は1910年に地元を離れ高等学校に入り、康有為や梁啓超らの思想を学んで、影響を受けます。
1911年に辛亥革命が勃発すると、清中央政府に反旗を翻した湖南駐屯の部隊に入り、半年後に清が事実上瓦解すると、除隊されます。
1921年、共産党党大会に参加。この党大会で「国共合作」の方針が決議され、毛は国民党の湖南支部を組織します。
しかし1927年、上海クーデターの発生により国共合作は崩れ、毛は武力で政権を打ち立てる方針を提案し、決議されます。
井崗山を最初の革命根拠地とした毛は1929年から1931年にかけて、湖南省、江西省、福建省、浙江省の各地に農村根拠地を拡大して、地主や富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施します。
のち毛は根拠地を江西省瑞金に移して、この地を「江西ソヴィエト」として「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となります。
こうしていわゆる「第一次国共内戦」が激化しますが、国民党軍の激しい攻撃によって、瑞金を維持できなくなり、1934年敗走して、「長征」を開始します。
1935年に周恩来が最高指導者となりますが、毛は周から実権を奪っていき、最高指導者の地位に就きます。
1936年、張学良らによって起こされた蒋介石監禁事件、いわゆる西安事件が発生、これを機にコミンテルンの仲介によって宿敵蒋介石と毛は手を結び、第二次国共合作を構築、翌1937年には日中戦争が勃発し、抗日戦線を展開していきます。
しかし、毛は非常に巧みで、基本的に日本軍と対峙していたのは国民党軍で、毛率いる共産党軍はあくまでゲリラ戦のみを展開し、共産党の勢力拡大のために戦力を温存していました。
1945年、日本が降伏し、終戦を迎えると、再び国共内戦が勃発、国民党の根拠地であった南京を瓦解させて、彼らを台湾に追いやり、1949年、中華人民共和国を建国します。
毛沢東は当初こそ「穏健で秩序ある改革」を勧めていましたが、1952年に急進的な社会主義化を打ち出して、周恩来や劉少奇を困惑させましたが、農業の集団化など社会主義政策を推進します。
1956年、ソ連では独裁者であったスターリン亡きあと、フルシチョフによる「スターリン批判」が行われ、これを機に毛とフルシチョフも不仲となり、中ソ対立が深刻化します。
1958年、毛は大躍進政策とよばれる農業と工業の大増産政策に打って出るも、失敗し、その責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ります。
これによって劉少奇ー鄧小平ラインに実権が移行していき、毛沢東の権威が落ちますが、林彪によって『毛沢東語録』が出されるなどして、毛は権威の回復を図り、復権を狙います。
こうした劉少奇ら経済政策を柔軟に見直し、毛沢東の方向性を変えようという派閥を走資派とよんで、毛らは紅衛兵を使って暴力的に糾弾していくプロレタリア文化大革命が発生、毛への個人崇拝も強化されていきます。
文化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われ、世界史上最悪の事件として語り継がれています。劉少奇、鄧小平らは失脚します。
1972年、アメリカのニクソン大統領、日本の田中角栄首相が訪中し、同年日本とは国交正常化、アメリカとも毛の死後、79年に国交樹立します。
1976年1月に周恩来が死去し、第一次天安門事件発生、毛もその後を追うように同年亡くなります。82歳でした。
むかちん