むかちん歴史日記499 歴史を変えた世界の恐るべき最高指導者④ 太平洋戦争開戦時の日本の指導者~東條英機
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は歴史を変えた世界の恐るべき最高指導者シリーズの第4弾!!!
太平洋戦争開戦時の日本の指導者、
東條英機(1884-1948)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F#cite_note-1
父親が陸軍歩兵中尉だったのもあり、陸軍士官学校へ入校、1905年に卒業します。
1929年には歩兵第一連隊長となります。
当時、帝国陸軍の中で、大佐である連隊長と兵卒というのは会話することや近くで会うことすらなく、地位的に隔絶された存在となっていましたが、東條はその中でも兵卒を思いやるある種異色の将校であり、兵卒の食事にも気を遣うほどの思いやりのある人物であったとされています。
1935年には大陸に移り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任します。
1937年には関東軍参謀長に就任。
1938年、第一次近衛内閣では板垣征四郎陸軍大臣の下、陸軍次官となり、
1940年には陸軍大臣を務めます。
近衛首相と東條は日米開戦をめぐって対立。
近衛は日米開戦は日本には勝ち目がない戦いだとして、回避しようとしていましたが
東條はこれに激怒して反対し、近衛は東條の説得に何度も当たりますが、結局東條は譲らず、近衛は内閣を総辞職します。
近衛の後任首相としては、皇族軍人である東久邇宮稔彦王を推す声が強かったのですが、内大臣の木戸幸一が独断で東條を後継首相に推挙し、昭和天皇の承認を取り付けてしまいます。
これには木戸の逆転の発想があり、東條は非常に天皇に対して忠実であったことから
今陸軍を抑えられる唯一の人物としての東條に天皇の意向として対米開戦の回避をさせれば、なんとか陸軍を抑えられるのではないか、という意図でした。
東條はこの意図を汲み、陸相時の主張から転換して、徐々に中国からも撤兵していく案などを策定していき、アメリカとの交渉に臨もうとしますが、
アメリカ民主党のフランクリン・ルーズヴェルト大統領は即時撤兵、満州国も認めないという強硬姿勢をあらわにし、日本側もこれは自殺に等しいとして、東條は開戦に向けて進んでいきます。
1941年、太平洋戦争の開戦、真珠湾攻撃を皮切りに当初は一気に勝利していきますが、
ミッドウェー海戦での敗北などで徐々に陰りを見せ始め、1944年になると連合国軍の反転攻勢によって、形勢逆転されていきます。
東條は行政権の長である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任し、権力の集中をしたことによって、天皇の統帥権にまで抵触するおそれがあるとして、批判されます。
そして反東條勢力でまとまったが、結局のところ、ヒトラーと並んで世界の憎まれ者になった東條に全責任を負わせるのが得策という判断から
東條政権を転覆させようという運動までにはなりませんでした。
1944年のマリアナ沖海戦の敗北で戦局は絶望的となり、東條内閣を辞職させる方向に進んでいきます。同年、東條内閣総辞職。
1945年、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏。
東條は自身の逮捕は免れないとして、拳銃自殺を図りますが、失敗に終わります。
1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)によって、東條はA級戦犯とされ、絞首刑が言い渡されます。同年、巣鴨拘置所内で執行。
享年64歳でした。
むかちん